第二部 タイムパラドックスの解釈

 最近の哲学的時間論のほとんどは、時間は存在しないという結論に至ってしまいます。だがそれはわからないということの言いかえに過ぎず、時間は存在します。このことを前提としなければなりません。
 時間とは、少なくとも第一義的には、世界が全体として持つ性質です。そう理解することが最も矛盾が少ないでしょう。つまりそれは重力であるとか、慣性の法則などと同等の「物理的性質」です。重力が存在しないという哲学者はおりません。では時間についてもその通りでしょう。
 混乱が生じるのは、時間を相手にするとき、私たちはどうしても意識の側に存在する時間に似た作用、たとえば記憶という働きを時間の概念に含めてしまうからでしょうか。五歳の私は九州のとある十万人都市のわかば幼稚園の縁下で泥団子を作っていた。この事実は私がどう変化しても過去の一事実として残ります。このことは私が記憶を失わない限り、私の意識の内部では正しいのですが、ではこれを世界に敷衍して正しいか。一つの事実として固定したことで、それは一種物質じみたものに変換され、時間の要素は抜け落ちます。天正10年6月2日に本能寺の変が起きたと言った時点で、人はそれに永遠という未知の性質を与えたことになります。
 ここに一つ、プラトニズムへの誤解が加わります。例えば3という数字はトークンとしての表現部分と、観念としての「3」の二つを併せ持っており、観念の部分は時間を超越した3そのものを志向する、という具合に言われます。しかし観念の3はその都度無時間であるといういわば仮の性質を付与されるのであり、私の頭に浮かんでいるとか、本のページ上にあるとかなどの事態は無時間的ではありません。
 時間が存在しないとは、世界の動きを説明する手段として時間が今果たしている役割を別の概念に置き換えられうることでなければなりません。重力という概念が果たしている役割をすべて重力波が担うことが可能であれば、重力はないといえると思います。私は、重力波とは重力の一つの表れにすぎず、これをもって全概念を尽くすことはできないことは、例えば座標上のマイナス方向への回転移動が虚数のすべてを言い表せていないことに似ていると思いますが、その正否はともかく、時間についてそのような妥当な概念が提出されたことはありません。つまりいつでも時間の「矛盾」が指摘されたのみです。矛盾とはその時間概念を作り出した論者の意見が間違っているということであり、実際の時間が矛盾含みであることを意味しません。
 そしてまた、最近の「現在論」すなわち現在のみが存在論として意味のある実在であり、過去や未来はそうではないという立場は、時間を空間化して論じることを批判する立場です。その点では頼もしい流れと言えますが、残念ながら相対論や量子論を強く否定することができず、それと折り合いをつけようとする態度が見えます。早く目をさましてもらいたいものです。

 空間が無限に続くか、有限であるかは、経験論的に確定できない、つまり私たちにはわからないことです。しかし、それが限りなく受動的であることはわかっています。物質やエネルギーは空間に展開され、それらがなくなると、また空間に戻ります。空間にポジティブな性質を与えようとする試み、例えばダークマターをここに見出そうとすることなどは、まだ成功していません。すると、こういえるのではないか。空間に限界をもたらすものは物質である。したがって、空間が有限であるとすることは、空間の外側にびっしり物質が詰まっているとすることである。これはいかにも正しくなさそうです。
 空間が有限であるか無限であるかは別にして、一般性において時間に一段劣ることがここから読み取れます。時間については、このような議論が展開できません。即ち物質は時間を止めることができない。従来この一般性が逆に考えられていたのは、純粋に空間を思惟すること、すなわち時間をないものとした幾何学的な思考は可能であるのに、空間をないものとした時間を思惟することは困難だからです。時間を考えるには最小限でも時計などの空間的な仕組み、あるいは数字などの記号が必要です。これは、時間の空間への従属を示すのではなく、時間を純粋に取り出すことができないということなのであって、それが世界のすべてにまとわりつく、最も一般的なものだからです。
 かくも一般的な存在を世界の側に帰すことにはためらいがあります。信じにくい、というところでしょうか。そこで認識の形式である、と論じたくなります。人間が外界を受容するシステムに時間が組み込まれているのであれば、問答無用にそれが普遍的な形式になります。これがカントの結論でした。だが彼の理論は、現代では妙な解釈を呼び込むことが可能であり、まず退けなければなりません。すなわち世界はどこかに蓄えられた情報であり、それを人が4次元時空の形式で展開する、という考え方。
 しかし何よりも、時間を人間の側に持ってきたということが、カント、そしてハイデガーに至るドイツ観念論の過ちでしょう。時の流れという錯覚は、人が客観的視点を持ちうるという錯覚に対応します。時間というような、最も一般的な性質を外から眺めうるという誤認です。時間の長短は対象の時間を発見したことによって、それを超越したということですが、それは世界全体が持つ時間への超越にほかなりません。
 時間は、存在論的な全体主義的視点を要求します。全体主義とは、部分の集合は全体にはならない、ということです。全体は部分の集合以上のものであると言っても、やはりちょっと違っていて、全体は全体としてしか存在できない、といったあたりになりましょうか。例えば進化論は現在理論としては行き詰まっています。それは遺伝子であろうが、ホメオスタシス論を取ろうが、個体の変化が積みあがって種に及ぶという理屈では確率論として成立しないからで、極端な比喩を用いるなら個体は存在せず種のみが存在する、という考えを取らない限り解決の糸口すら見えません。ただこれまでの科学にはそのような語法がないようです。
 私たちは便宜上さまざまな時間の流れを使い分けます。しかし世界は一つの根源的な時間を持ちます。私たちにとってそれが伸びたり縮んだりするものであっても、世界にとってはそのように不安定なものではないはずです。もちろん、逆向きに流れるなどということもあり得ません。そういう風変わりな時間とは、時間についての認識論的事実であって、存在論的事実ではないからです。