進化論を科学ではない場所から考える
まず単純な感想を言いますと、インテリジェント・デザインに対する進化論学者たちの拒否反応には、個人的に理解しがたいところがあります。物理学者がインテリジェント・デザインを批判するならば、ある意味不思議はありません。物理法則ですべてが説明できるという前提に立てば、当然そうなるでしょう。もし謙虚に、「いや生物界のことや社会のことにまで、物理学の立場で論じつくすことはできませんよ」と言う人があったとしても、それは対象のあまりの複雑さが人の手に及ばないと考えているからであって、自由意志や進化の仕組みも結局は偶然と必然の組み合わせで出来上がっていると、心の底では信じているのだと思います。
論じる土俵が生物学に移動したのだから、どこまでも物理学に忠実である必要はなく、いくつもの独自性を導入することが自然です。生物のみに当てはまる法則があって、それがインテリジェント・デザインである、という主張であってもよいような気がします。
私の論点を最初に明かすと、こういうことです。宇宙にはさまざまの法則があり、定数が存在するわけですが、それらはすべていうなればデザインではないでしょうか。重力の法則や原子の形式、雪の結晶が六角形であること、磁石が引き寄せあうこと、全てのこのような物理現象は、世界がそのような仕組みになっているからです。ではなぜこういう秩序が存在するのか。そういうふうにデザインされたからであるといってはいけないのか。
科学者は、それ以上たどることの難しい、基本的な秩序を偶然という観念で理解しました。しかしそれはそのようにデザインされていると、なぜ言えないのか。
いや、偶然そうなっている自然法則であると考えてもよいのです。しかしそれなら、生物学で説明の困難な事態が現れた時、無理に説明せずに、偶然その形が出来上がった、でなぜいけないのか。それが何となく違和感を引き起こすというなら、本当は物理学の基礎の部分のすべての仕組みにも違和感を覚えるという態度が正解なのではないでしょうか。
私は進化論を信じていません。進化という事実はあるのかもしれませんが、進化論という理論のほうは間違っていると思います。これだけをストレートに人に言うと、基礎教育さえできてない大ばかと思われることでしょう。しかし進化が実際にあったのだから、進化論は正しいはずである、という安直な理屈が、人々によって信じられている内容だと思います。
私が何かを言うより、インテリジェント・デザインと称される説に基づく一連の本、それも、噛み砕いて語っているようなものではなく、しっかり歯ごたえのあるかなり高度な本を読んでいただくことがいちばんの理解の早道であると思います。Stephen
C MeyerのDarwin’s Doubt、Michael J BeheのDarwin’Black Box、Tom BetheleのHouse
of Cardsなど、数多くの本が出版されていますが、残念ながら翻訳はないようです。日本人研究者の本もそれなりにあり、平易な記述で読みやすさは期待できます。その反面哲学的な補足に乏しいきらいがあるようです。
進化は純粋な自然科学の領土だから哲学的に薄いという指摘は的外れに思うかもしれません。しかし何故進化論に疑念が呈されたのかといえば、唯物論、機械主義的な説明が間に合わないと思われるからで、進化論とはあくまでそのことにこだわるから根本的に間違うのであるという洞察が、上に記したインテリジェント・デザインの根底にあります。
本格的な進化論批判はそちらに任せて、あまり深い科学の知識なしに考えられることだけを考えてゆきます。これは意外に重要なことです。
現在、進化論を説く書物においては、進化によって説明されることと、進化そのものを説明することとの違いを理解せず、あえて混同するところがあるように思います。ある種の動物で親指が退化し残りが鉤爪のようになっているとしたら、樹上生活に適応するべくそう進化したと結論することは間違いではありません。しかしこのことはある特定の進化論の原理を証明しないでしょう。
私はこうして考えたままを書いてしまっています。哲学の目的の一つは自分の頭の悪さや知識の不足と向き合うということです(何気なく書いた後で、これってソクラテスが言っていた無知の知に近いのではないか、なんて気づきます。この点は難しく考えず、古代の賢人と似たようなことを思いつける自分を、心の中でほめておくことにします)。そのような信念があるので、そこは割り切れてしまいます。ともかく、人にわざわざ言う必要はありません。エリック・ホッファーの日記も、ウィトゲンシュタインの記録帳も、ゲーデル文書も、人に語るものではなく自分のためのメモであるとして、真偽の怪しいことがいっぱい書いてあるのだから、自分ごときが何一つ間違わず正確であり得るなどと思いあがるのは傲慢というものです。
進化論の間違いなどと言うと、本格的な研究書を読んで疑問を持ったとか、そういうふうに考えられるかもしれませんが、そうではないのです。ただ単に、これだけ大きな思想だから、いろいろな書物を読んでいると自然に頭に入ってくる情報があります。それをもとにした漠然たるイメージが作られています。どうやら遺伝子の転写ミスによる突然変異があり、それがたまたま良い結果に出た個体は、優秀さから子孫を残しやすく、その細かな積み重ねが進化を導く、ということらしい。私にわかっているのはその程度です。
ある日、と言っても三十年以上も前ですが、ふと思います。遺伝子がどれほど複雑であろうがあの小ささでは体全体の桁違いの複雑さを内包することはできないのではないか。遺伝子が見つかった時、それは体のほかの部分と比べて格段に複雑な構造物でした。だから体を作る設計図がそこに含まれると思ってしまうのも無理はないのです。その後細胞や膜なども当初考えられていたよりはよほど複雑な構造体であることが分かってきました。ほぼ同程度の複雑さ、と言っては大げさになるのでしょうが。
だが何となく、根拠としては弱い。もやもやするが、調べてみるほどの疑いとも思えません。その後二十年くらいして、DNAの情報は約800メガバイトであることを知ります。これはCD一枚分程度であり、DVDやBrue
rayに及ばない。CD一枚に人間を組み立てる情報が入り切るものでしょうか。ますます疑わしく思いますが、もともとあまり根拠のある疑問ではないし、どうせ調べてみたところで「入り切る」という答えしか出てこないことはわかっています。
ここで大事なのは、進化論が正しいのだから私の疑問のほうが間違っている、という結論を出さないことです。いや、出してもよいのだけれど、もやもやした気持ちは、もやもやのままこっそりとっておく。なぜなら、その結論は理論的に正しいようで、少しも理論的ではないからです。進化論が正しいということは、私のあずかり知らぬところで誰かが言っていることであって、私が考えて出した結論ではありません。だから(あくまで私にとっては)事実かどうか未確定なのだから、私の疑問に対する答えにはならないのです。めちゃくちゃのようですが、この方が理論的とは言えないでしょうか。
さて、やはりかなり昔のこと、もう一つの疑問が頭をよぎりました。適切な環境があれば、必然か蓋然的かはわからりませんが、生物は当たり前のように誕生する、と言われていました。では、地球は生物が現にいるのだから、適した環境であることは間違いないのに、すべてが最初の生き物の子孫ということになっている。最初の一回だけ誕生して、なぜ続けて別の系統が生まれてこないのか。なぜ何度も何度も新生命が誕生し続けないのか。
これもたぶん、疑問としては弱いでしょう。最初のころの海の環境だけ特別で、今のような状態では生命は生まれない、とか何とか理屈があるのだろうし、調べてわかることではなさそうです。チューブワームという、系統の不明な生物が、深海の硫化水素の熱湯の中で発見された時、ずいぶん話題になりました。これが生物の系統樹から外れた新生命体ということであれば、進化論の正しさが証明されたようなものだと私は思ったのですが、すぐに現行生物の仲間ということになり、なぜかそのことで進化論者はむしろ安堵しているらしい。不思議でした。あとで調べると、現在の生物はすべて古代のある時点で生まれた原生生物の枝分かれであることが、進化論の重要なテーゼの一つだったのです。なんだか、これは妙な縛りのような気がします。別系統と言い張って、これで進化論が証明されたと宣伝するほうがよいと思えたからです。なぜそうならないのでしょうか。これは私の頭が悪いのか。ともあれ、私のもやもやは解消されずに残ったことになります。
ところで、これでは私がいかにも不勉強で、妄想だけたくましくしていたようですが、生物学の本は一貫して読書の範囲にあり続けました。二十歳のころ、コンラート・ローレンツの「鏡の背面」という、生物学者の癖になぜかカントをベースにした不思議な書物を読み、いたく感銘を受けました。彼の本は手に入るだけ読もうと決め、ノーベル賞受賞の対象である動物行動学や、人間文化の中の進化論的事実などを書いたものまで読んで行きます。どれも面白い。書いたものを全部読もうと思ったのは、この分野ではほかにスティーヴン・ジェイ・グールドのみです。もちろん途中でジャック・モノ―やドーキンス、聖書たる「種の起源」も入ってきます。私は別にそれらを批判的に読んだわけではありません。純粋に楽しめました。もやもやは増え続けました(たとえば遺伝子だけ突如デジタル情報になるのはなぜ、とか)が、どれも頭の悪い人間の疑問らしく思われ、進化論をどうのこうの言えるレベルでありません。
先回りして言うなら、これらのことに答えはないかもしれません。疑問のレベルが低すぎるのか、あるいは答えの出ないほど深遠な問いなのか。私としては後者を望みたいところですが、どうもつまらない疑問のような気もする。とりあえず、いくらか足掻いてみることになります。
もやもやはたくさんあるのですが、もう一つだけ挙げておくなら、例えば二枚のトランプカードを投げてΛの形に着地することはありうるかもしれないが、一組を投げてピラミッド型に組みあがる可能性はありません。永遠に試行を繰り返しても、無理でしょう。これほどに単純な構築物でもそうであるなら、生物の複雑さをランダムさから導くことは不可能ではないでしょうか。それでも、こうして直接言ってしまうと、どうにも根拠不足の、頭の悪い考えであるような気はします。
だが、進化で獲得するべきものの複雑さを考えると、これは案外に正しいのかもしれません。例えば鳥の翼は羽毛の並びや角度まできれいに最適化されています。浮遊していただけの海の生き物が泳ぎを覚えるということであれば、環境との複雑なやり取りで徐々に泳ぎに最適な道具を仕上げていったと、なんとなく理解できたような気になれますが、そしてそれは単に気のせいなのですが、翼は最初から最適化されていなければ飛ぶことはできないし、飛ばない限り最適な解を見つけることはできません。実際のところ、鳥の翼も昆虫の翅も、最初から飛ぶのに最適な完成品として出現しています。進化論とは、なぜこういうものを手に入れることができたかを語るものだと思いますが、私は答えらしきものを推測することができませんでした。専門用語を交えて生物を複雑に描きさえすればなんとなく進化というものが可能のように思えてくる……多くの本の説明はただそれだけのことにしか読めなかったのです。
だが生物の複雑さの強調は、むしろ進化という飛躍の不可能性を表すのではないでしょうか。翼を持つということは、それだけではなく体の軽量化とか筋肉の効率を変えるとか、信じられないほどの改変を要求します。しかもそれが少しずつ変化していったのでは全く役に立たず、一挙に変わる必要があるのです。
なぜネオダーウィニズムが主流となったのかというと、遺伝子というブラックボックスを噛ませることで「最初から最適化された道具」を手に入れることが可能になる理論だからです。だが進化とは生物が複雑化する過程(つまり手持ちの道具を最適化してゆく過程)であるという説をとるとなると、ダーウィンのように隙間のない漸進説とするか(これは化石によって否定されるでしょう)、スティーヴン・ジェイ・グールドが言うように「ある時世界的規模で一斉に飛躍的な進化が起きた」とするしかないのですが、後者はどう考えても言葉でごまかしているにすぎず、最適化された道具を手に入れる説明にはなっていないように思われます。
つまり進化論はミクロレベルの進化(つまりΛ型に着地する二枚のトランプ)を説明するのに適しているが本当に必要なマクロレベルの進化(ピラミッドに組みあがったトランプ)の説明には役立たないのではないか。ダーウィンはガラパゴス諸島のフィンチのくちばしの形状変化(ミクロな変化)を、そっくりそのまま進化の全過程(マクロな変化)に適用できると考えたが、それは行きすぎた外挿ではないか。
ネオダーウィニズムはその行き過ぎを全部DNAに押し付けて再生したのですが、それはたんにDNAをブラックボックス化しただけであって、複雑な改変を説明しきれたとは言えません
残念ながら現在の進化論はブラックボックスなしには成立しないようです。インテリジェント・デザインは説明全体としては丁寧ですがデザインそのものの正体はもう一つ明確ではないし、神の創造説は人間社会の様々な様相が神の存在と矛盾をきたしていると思えば信じることが難しい。だがあくまで語らねばならないとしたら、語れているような雰囲気で済ますべきではなく、DNAをブラックボックス化したネオダーウィニズムを含めて、ぎりぎりのところまで理屈を詰めて行った誠実さの表れだとは思います。
続く。