2-12 感情移入で時間論を語る弊
相対論の側からのパラドックス解決例を見ておくところから話を開始したいと思います。もっとも有力視されている一つは、たとえば出発時と方向転換の際の加速度の変化に注目することです。加速度は一方的(つまり絶対的)であり、だから動いているのは宇宙船のほうであることがわかるとされます。この加速度をさらに微少加速度に分解し、そのたびに時計が遅くなると付け加える書物も散見されます。
この意見の論拠は、地球に残る側は宇宙船発射の際の加速度を体感しないということに尽きると思います。しかしそれは単なるイメージではないでしょうか。言うまでもなく宇宙船がとびたつときの加速度は地球に残る側も体感しています。加速度はこの場合でも相互的です。ただし宇宙船対全宇宙という桁違いの質量比率によって体感ということがほぼ無意味にされているだけです。エネルギーを消費しながら飛ぶということで、いかにも加速度が宇宙船側のものであると感じるなら、打ち上げの際宇宙船に積んだ燃料ですべてをまかなうことにするか(それなら従来通りの感想になります)、あるいは地上の発射装置にすべてを任せ、あとは慣性だけで帰還まで完遂できるように工夫するかの違いを考えてみればよいのです。まあ、できないのでしょうが、思考実験として宇宙船が全くエネルギーを使わない状態もあり得る、という想定です。この場合は、エネルギーを消費した発射装置の据え付けられた地球が加速したのであり、宇宙船はその反作用によって反対側にはじき飛ばされたと言ってもよいわけでしょう。加速度も明らかに相互的であり、エネルギーの消費を無視して、たとえばスクリーン上に描いた映像で地球と宇宙船の関係を検討してみることで十分なのです。つまり相対論の出発点が幾何学的な発想に従っているように、単純な幾何学的処理で足りてしまいます。いや、そうではなく、むしろ単純な幾何学的処理すなわち図面上のことでなければ相対論は成立しないのです。加速度による双子のパラドックスの説明は誤解を誤解で上塗りしているという結果しか見えてきません。
相対論を論ずる学者たちのもっとも陥りがちな考え方がここに表れています。つまり、物事を自分の属する系と対抗する系の二つに分けて、一対一の関係をしか見ないことです。
今、二つの系に分けて、と書いたのは、少し正確に表現しすぎました。系というものを相対論の学者はそれほど明確に考えているわけではないからです。考えているように見せかけているが、かなり漠然とした指示語にしかなっていません。等価原理の思考実験の際に、エレベーターの箱内と箱外の空間を分けて考える迂闊さにそれは表れているのではないでしょうか。つまり日常的感覚なら空間を分けても、独立した系を任意に想定しても、結局は正しい結論に至り得るのですが、相対論では必然的に間違います。したがって、彼らの側は日常感覚のままでの言語使用は許されないのです。
たとえば地球を飛び立った宇宙船が仮に光速度を超えていたとして、戻ってみたら日本は昭和の時代だったという途方もない話があったとしましょう。どうやら40年ほど遡ってしまったようです。しかしこの場合、時間を逆にたどったのは自分なのか地球なのか。すぐには答えられないでしょうし、答えるにしても、裏付ける理屈が必要だと感じるのではないでしょうか。つまり時間の進み方が過去へ向かうか通常のままかの二通りあり、それを私と地球のどちらかに割り振るかの選択肢がさらにあります。地球が遡ったと考えることは、実は宇宙全体が遡ったと言うに等しく、逆行したのは自分の方である、と考えるのが正しいように思えます。しかし私が時間を遡るとは、私が一人若返るというのが正しい表現ではないでしょうか。ただし少なくともそれは「作り話ではない、事実の体感」としてはあり得ません。それはつまり世界の動きを逆回転として経験することだからです。この想定はすぐに、では普通に暮らしているこの瞬間私たちは実は逆転した時間の中にいるかもしれないのだが、それを自覚しないだけなのかもしれない、という訳のわからない反事実的仮定を呼び込むことができます。体感として時間が順行すること(これも変な表現ですが)に全く意味がないことになってしまうでしょう。
それではやはり、自分の体験の日常性だけは保存し、地球に戻ってみたらそこが過去の世界であったということが、唯一の納得できる解決なのでしょうか。それは感情移入の可能な答えを求めているだけで、理論的な整合性とは別物であるように思えます。たとえば、それはどのような経過で実現するのでしょうか。私が地球を離れる。動くのは私を乗せた宇宙船のみであって、宇宙の他の部分はすべて地球に対して静止しているとする。私は道中、40年前の姿に戻りつつある宇宙を眺め続けることになるでしょう。それがどのような光景になるかはわかりません。おそらく宇宙空間のことだから目に見える変化などないのでしょう。しかしこんな空想の細部まで現実的である必要はなくて、人間の尺度で十分に読み取れる変化を伴って時間の流れの指標となる天体がそこかしこにあると仮定してやればよいのです。地球に戻った瞬間、突如として40年巻き戻るのでないならば、私は旅の間中刻々と若返る宇宙を見続けることになります。これはいかにもSF的で、まったくもって現実的ではありません。宇宙全体が若返り、私という極小の物体一つだけが普通に時間を消化するという途方もない空想を否定するためには、やはり私の時間体感の順行性を捨てるしかないのです。
ひょっとするとその途方もない空想の方を肯定できるという人もあるのかもしれません。しかしそれは別の場所へ移動しながら風景を眺めるという日常経験のようにして宇宙の若返りをイメージするのであり、時間についての思考ではなく、もっともらしい日常感覚をアナロジーとして使っているにすぎないのです。