5 数学的実在論の多義性

 高次元存在を強く信じさせる理由の一つが数学的実在論なのかもしれません。例えば虚数を必要とする事象があった場合に、それを手続き上の問題と考えずに虚数という数学的存在が宇宙の中にあるとする立場が数学的実在論です。むしろ積極的に、宇宙は抽象的な数学的構造しか有せず、私たちが見るこの具体的な世界は何かの都合で構造の断面を存在として顕現させたものに過ぎない、とさえ言ってのける人もいます。こういう見解にとって、4次元が数学として正当な語りであるならそれは現実に存在しなければならないことになります。
 今日、あからさまに数学的実在論を支持する人はさすがに偏屈なごく少数だと思われます。それでも高次元信仰は払底されない。相対論の反対者には数学の得意な人が多く、その点に引きずられて高次元の存在については何となく態度が煮え切らないようにも見受けられます。数学に対する過度の信仰に警鐘を鳴らしていますが、相対論にあって数学の威力を最もグロテスクに拡大した部分が高次元世界でしょう。大変微妙な点ですが、実在論を信じるというほど強い気持ちがなくとも、否定しにくい部分はあるのでしょうか。
 ここでわざわざ強い意味での数学的実在論を否定しても、屋上屋を架す行為にしかならないのかもしれません。ホーキングやペンローズの著作を読んでいると、日常的な部分からいとも軽々と非現実の世界へ、またはその逆の動きを、数学の力を借りて往復しています。それはミンコフスキーやワイルといった初期の伝道者たちから引き続く伝統で、彼らを動かしているのは実在論という言葉とは別の、もっと無意識裡の価値観なのでしょう。しかしそういうものを考えるにあたって、私の方はもっと意識的な言葉を使わざるを得ない、という事情です。
 宇宙は幸いにも単調なカオス状態ではなく、いくつかの秩序を内包します。秩序は数学的に描写するのが最もふさわしい把握方法です。だが一歩進んで、数学的構造こそが宇宙の存在そのものであると考えるべきなのでしょうか。よく引き合いに出されるのは、量子論の成功が、表面的な日常感覚よりも隠れた数学的構造を優先するべきという考え方の勝利を例証したということです。もしそうなら、4次元どころか、無限の次元を持つ空間について語ることも宇宙論として可能になるし、むしろ、積極的に語るべきということになります。
 数学はもちろん独立した世界を形作る体系ですが、客観的な世界を描写する際には言語の一種であると見なされるべきであって、客観的世界そのものではあり得ません。以下はごく簡単な算数ですが、数学を言語使用の側から考えるということです。
 2+3=5は2つのミカンと3つのリンゴを合計して5つあるとするときにも、2つのミカンと3つのミカンを合計するときにも、あるいは2人の人間がいて、1人はリンゴ1個とミカン1個の組み合わせを2つと報告し、もう1人は3つの桃を3つというので、合算して5個である場合にも、いずれも正しい表現と見なすことができます。しかし2つのミカンと3つのミカンを合計するときのみ正しいと言うことも不可能ではありません。ではこのとき除外された例は、2+3=5という数学的構造を分け持っていないと考えるべきなのでしょうか。もし構造が普遍的であり、除外されるべきではないとするなら、「5つともミカンであるときのみこの数式が正しい」という意見は全くの間違いであることになります。意見としては部分的に正しいが、数学的には間違っている、と言うべきなのか。あるいは、数字をその都度定義することによって「5つともミカンである場合のみ正しい」という意見の正しさを部分的に肯定することが可能になると言うべきなのでしょうか。それでも、根本的には間違っているということには変わりがありません。これは中々に抵抗のあるところです。なぜなら、根本的に間違っていると言いうるのは、数学的実在論が正しい場合の話であって、一連の紛糾はむしろ数学的実在論を正当化するために生じているからです。
 今、すべてを果物に当てはめて論じました。しかしながら対象をこの世界すべての存在物に拡張できることは明らかです。3を恒星の数とし2を太陽黒点の数とすることも、3はバクテリア、2をコップにつがれた水を一個と数えた場合と言うことも可能です。私がわざと奇矯な例を挙げているように思えるかも知れませんが、1という数字が与えられたとき、私たちはこれによって宇宙に存在するあらゆるもの、あらゆる任意の集合体、ひいては宇宙そのものさえ「1つ」という数え方で表現できることは事実であると思います。あるものを1つと数えるということは、そう見なされるに足る客観的な存在理由があるということです。
 ところで哲学にはメレオロジーという考え方があって、いすの背もたれと脚とがいすという一つの存在物の部分であるように、太陽の中の一電子と私の鼻との組み合わせで一つの存在物と見なすことも可能であるとされます。もちろんこれは人間である私が考えた組み合わせなのでまだ意味が残存しますが、全く無意味な要素をもとに無意味な集合体を作ることも可能でしょう。そのあらゆる任意の集合体の組み合わせに対し共通の構造が存在すると言いうるのなら、その構造は無意味であることは明らかです。
 たとえば2+3=5の解答例として6個のミカンを差し出すことも可能でした。その内訳は外国産のものは個数に数えないとした上でそれが2個、少し大きめのものは1個プラス半分の価値があるとした上でこれが2個、そして通常のものが2個です。これは不当な言いがかりのように思えるでしょう。しかしながらもっとも基本的な答えに立ち戻るとして、5個のミカンを差し出すとき、形も大きさも同じではあり得ないこれらのものを同じ1と認識することはそもそも正当と言えるのでしょうか。この部分はどうにでも理屈を付けられる問題に過ぎません。
 もちろん無意味になることを避けるために定義があるわけです。実はこの場合の定義には2通りあって、一つは数学内で2+3=5の意味を説き明かすこと、もう1つは自然数の部分に何を代入してよいのかを決めることです。後者はこの与えられた式と現実とのつながりをどう見いだすかという話であって、各人が全く任意に設定できるものです。私たちは日常生活の中で、この「現実とのつながりの設定」をきわめて自然かつ無自覚に遂行しています。あたかも客観的な世界にその設定が存在していると誤認してしまうほどには自然に、です。したがって私が「宇宙そのものも一個と数え上げることが可能である」などと言って、それは構造として無意味であると結論することがいかにも不当な言いがかりに思えてしまいます。
 しかし2+3=5はその内部構造を持ち、無意味ではありません。宇宙そのものの構造と見なすとき無意味になるということです。2+3=5の内部構造を言語的な使い方で宇宙の構造を描写すると考えるとき、初めて全体が首尾一貫した理解可能なものになります。ここで数学的実在論の本来あるべき意味がはっきりします。数学は一つの学問として完全に独立しており、自然科学の成果によって結論が左右されることはありません。そしてその内部は数学自身の定義によって決められます。これは大変当たり前の主張で、わざわざ強調する必要は本来ないはずなのですが、この数学の独立性ということが相対論の学者によってはなはだ粗雑な使い方をされてきたわけです。すなわち数学の内部で2+3=5の意味を言うことと、これを世界に当てはめて数字の内容を定義することとの間違った同一視です。

 以下の文は、いちおう量子論の正しさを認める立場のように書きます。量子論は初期の段階でアインシュタインの思想を取り入れてしまっているから、どうしようもなく間違いだと私は思っており、そのことは例えば多世界解釈を持ち出さねばならないほど矛盾した世界観になってしまうところに出ているのではないでしょうか。しかしそのことは棚に上げておきます。このご都合主義的なところは御寛恕ください。

 今でこそ、批判者はアインシュタインの数式が非現実的な結果を導くことを言い立てますが、彼自身はおそらくもっと地道に、現実と数式の示唆するものの一致ということを考えていたと思います。神はサイコロを振らないという言葉で有名な、量子論における実在論の論争で彼が負け側に立ったことは、むしろ数式の持つ現実性を切実に希求していたことを表すのかもしれません。数式が現実と遊離していると彼が感じたということは、数式は現実的であるべきであるという信念が存在していたということなのでしょう。「現実的であるべき」と「現実であるべき」との距離は、「現実的であるべき」と「現実の表現であること」よりも、もしかしたら近いのかもしれません。大変不幸なことですが。
 量子の振る舞いは複素数を用いなければ表現できず、少なくともテニスボールのようなものではないとして、そこにあるのは複素数という数学的存在ではなく、複素数を用いなければ表現できない何かということです。そもそもあの論争で敗れたのは量子もテニスボールのように振る舞うべきであるという旧弊な偏見であろうと思います。この偏見に賛成しない人はすべて数学的実在論者であるという結論は私には全く理論的なつながりが理解できませんが、相対論支持者の主張は結果的にそういうことになってしまうのです。つまり実験結果というのは目の前にある現実的な出来事であって、現実にはあり得ない何かを示唆する訳ではない。数学的実在論というのは、この出来事に、現実にはあり得ないものという意味を与えた上で、改めてそれは数学的存在そのものである、という理論操作をしなければ正当化されません。実際には、現実にはあり得ないのではなく、日常的に目にする物体はそのように振る舞うことはない、ということです。すなわちテニスボールのように振る舞うものでなければ現実的ではないという前提がここにはあり、この前提の出所は自分の素直な考えではなく、多くの人は素朴にそう考えるに違いないという傲慢な先入観にすぎません。
 虚数すなわち2乗してマイナス1になる数字の現実例として、座標上に打たれた点を2度回転移動させてマイナス域に持ってゆく方法があります。虚数が現実的な意味を持つことに感動するあまり、数学の現前そのものであると誤解する人の多い説明法です。波動関数に含まれる虚数が量子の回転移動を意味しないように、もちろん虚数は回転移動ではありません。座標で説明するなら回転移動として表現可能である、ということです。一つの表現型がすべての性質を尽くしているかのごとき議論は、相対論のすべての面で現れる悪しき思考法ですが、これも類似の形をしています。昔から存在する還元論の一種であると言えば、それだけのことです。しかし還元論として非難される従来の形は、還元先も還元される現象もともに実在するものであるという最低限の保証がありました。その場合には、因果関係が存在するという錯覚に基づく間違いが還元論という予期せぬ結果なのであり、これは研究によってただすことが可能なものです。しかし相対論においては実在するものと表現型、あるいは実在するものと概念の間の同一視なのであり、これは実証的研究によって間違いが明らかになるものではありません。思考のみが決論を下せます。
 量子論での議論は、実験結果を表現するには波動方程式が必要であるという事実を確定させた上で、数学的実在論の問題が取り沙汰されているわけですが、空間が4次元であるということは数学的実在論を前提としなければ成立しないと思われます。すなわち、もし三つの座標軸のほかに虚数の方向が必要であるならそれは数学的表現の都合上の問題であると割り切ればよいのですが、実際にもそうでなければならないと考えることがこの立場です。これに対しては、事実としてその第4の座標軸を描いてみせることはできないではないか、と答えるしかないのですが、おそらくそれには「3次元の住人である我々には4つ目の次元は感知できない」という反論があり得るのでしょう。だがこれこそが数学的実在論を前提としなければ導き出せない解決であって、そもそもこちらが納得しかねる点なのです。
 この簡単な要約は殊更極端な解釈に拠ったように見え、実在論の主張者を満足させないでしょう。しかし数学的実在論が結局そこに帰結するということを先回りの形で述べてみたのです。この立場をとる人は、数学はそれだけで独立した美しい世界を形成すると言います。つまり数学のみが構成できる宇宙があるということでしょう。このことの意味は、数学のみが表現できる宇宙の一部分があるということではなく、爾余の宇宙とは無関係な数学の論理空間が存在するということです。ではそこから得られる教訓は、我々の経験的世界と数式との関係について、従来考えられていたよりもいっそう慎重な扱いを要する、ということになるはずではないでしょうか。論理空間のある部分は宇宙そのものであり、ある圏域からは無関係になる、ということは考えにくい概念です。ここで間違いやすいのは、宇宙はすべて数学によって表現できるという、とてもありそうにない前提を置いたとしても、数学的空間の内部で区別をつける必要はあるということです。それならば、数学的議論のみで現実か非現実かが決まることになります。いうまでもなくこれは実証的科学の放棄です。
 しかし不思議なことに数式の組み立てに頼った放恣な立論をむしろ擁護するためにこの間違った意味での数学的実在論が採用されています。それが強すぎる言い方なら、ある理論の正しさを確認するべき経験論的な基準を緩めるために主張されているわけです。彼らの意見では、世界は客観的である、そして数学も客観的に外に存在する、従ってどちらも客観的な真理を形作る、ということになります。この三段論法は単なるイメージによって信じられています。そのイメージを補強するのは、直観的な(本当は経験的な)意見は常に数学的理論によって否定されるという先入観をうまくこれが醸成することでしょう。しかし数学的に表現するとは極端に簡便化するなら目分量ではなく定規を使って測る、腹時計ではなくデジタルクロックを使うということに過ぎません。定規の目盛りを読むことは、目測よりは理論的とは言えるかもしれませんが、直観という表現を使うならどちらも同じく直観的であるには違いないのです。現象の背後に数学的実在があるなどという途方もない世界観を必要とするものではありません。
 存在論とは、何かを無条件に絶対的であると認める立場であって、しかしその意見がある意図や文脈の中でのみ成立する考え方であるにもかかわらず、そのことを論者が自覚できないという状態を指します。一部の学者が数学的実在論をことさら持ち上げるのは誤解しているのでしょうが、意図的な戦略なのかもしれないと思うこともあります。数学という学問が人間の意志や経験科学からは独立しているという意味で主張されるなら異議を差し挟む余地はなく、この場合においてのみ正しい説明です。だが明らかにこのような意図から実在論を言う人は皆無でしょう。それは本来数学という学問の独立性を主張するべき考えだったのですが、学者あるいは科学評論家たちによって単に素人を威嚇するための道具になりはてました。私が最初にこれを否定したのは、数学的存在が時空間の中にあるという意味で実在するという意味を持つからです。数学は観念的である、と当然言わねばなりません。もちろん、そんな意味を持たせたつもりはないという返しになるのでしょう。それは時間を超越したプラトン的な世界であることは誰もが知っています。では数学の厳密な構造は否定されるのか。もちろんこの意味では一つの世界を形成する独立の存在です。だからこそ、時空間に属する通常の存在物との関係を述べるに当たっては用心深くあるべきでしょう。もし素人の直観的判断を否定する都合だけで長々と数学の目もくらむようなすばらしさを説くのであれば、そしてそれが相対論擁護の一手段とされるなら、時空間に属するものという意味での存在をそれに与えていて、当人だけがその意識を持たないのです。
 この錯綜ぶりに惑わされる必要はありません。すべてのものが時空間で表現される宇宙の中にあるわけではないからです。例えば民主主義、制度としての学校、基本的人権など、枚挙にいとまはありません。それどころか、言語で表現できる大抵のことは時空を超越しています。それらを無理に空間の中に定位する必要はないのですが、そう考えたがるのが私たちの習いとなっているだけのことです。間違った意味での数学的実在論とは数学的概念のみが時空の羈絆を免れていると信じることでしょう。それは全くの逆です。
 科学という部門で応用される限り、数学は単なる言語の一変種です。学問としての独立性を言うなら、直観主義は必要ありません。しかし、経験科学を名乗るのであれば直観の裏付けが不可欠であり、さらにつけくわえるなら、理論物理学とは人を惑わせ易い呼び名であって、観測データという経験的材料を最もうまく説明する理屈ということです。その意味で、数学は非常に正確に世界を描写しますが、とりもなおさず「描写」しなければならないのです。ある法則の定数が2RであってRでも3Rでもないということは世界が決めることであって、数学という思弁ではありません。突き詰めて行ったらもっと根本的な原理から単純に数学的に求められるということも数多あるでしょうが、それは全く別の話です。宇宙のすべてが数学的手続きだけで決まる訳ではないからです。この「全く別の話である」という部分が理解しにくく、またすべてが数学的手続きだけで決まるという信念にも結びつきやすいところでしょうか。ある事象が数学的に記述可能であるとしたら、数学的実在論は否定されます。なぜなら、世界に数学的実在のみが存在するなら、なぜその特定の式で表現されるのか理解不可能になるからです。これに対する反論は多世界解釈を支持することではないでしょうか。