多世界論への入り口

  

  2-14 多世界論への入り口

……高速の宇宙船を飛ばす。私が地球に残り双子の弟がそれに乗って外宇宙を一巡りする。出発時は二人とも20歳、地球で20年待った私は再会の折に40歳、弟は30歳である。
 双子のパラドックスを考慮に入れないとすると、これが一般的な話でしょう。そして相対論が間違いなく否定できない事実と認める筋書きの一例です(数字は違うという話はあり得ますが)。ここに時間の逆行はありません。個々のものには各自の時間の流れがあり、他の系との比較により早遅が生じることになります。地球に残った私がより早く年をとるのは運動量を持たないからであり、高速で移動する双子の弟は時間の遅れを経験するが故に私より若いままであるとされるでしょう。
 ところで、なぜ弟は運動系にいると見なされるのでしょうか。逆に私が運動系であってもよいのではないのか。この言い換えが双子のパラドックスの焦点と言ってよいと思うのですが、じつはこれは問う必要のない設問です。相対論では、そのもの自体として運動系、静止系であることに意味はないのです。まさに相対的であるべきはずだから。ではそのときの気まぐれによって私を運動系とみてもよいし逆でもよいのでしょうか。いや、これは少しニュアンスが違ってしまいます。どちらでもある、と言うのが正しいのです。あり得ると可能形で語ると、また少し違ってしまうでしょう。すなわち旅が終了して再会したとき、私は弟より10歳上であり、かつ下なのです。実際にこれを試してみたら結果としてどちらが運動系であったか判明する、ということではなく、ランダムに結果が出る、ということでもなく、何度類似の行為を繰り返そうと常に10歳上であり下でもある、という結果になるのです。わからないということとも、計算不可能ということでもありません。私は10歳上であることと下であることの重ね合わせとして存在します。相対論はそう主張しているのです。
 理由は非常に簡明です。普通の、そしてもちろん正しい感覚で言えば、ある物体の動きにおける時間と空間の絡み合いは、単純に一つに決定されます。しかし相対論では、兄弟のどちらの意見も採用しようとするので、必然的に二通りの時間軸が生じます。

 どんな場合でも問いかけるべき絶対的な審級は光の速度ですが、光が答えをもたらすことはないでしょう。なぜなら、いかなる方向へ動いている者も、いかなる速度を持つ者も、光を同じ速度として見るなら、これに問うても自分の運動の様相を知ることはできないはずだからです。絶対空間との関係はもちろん相対論が最初から拒絶しているのですから、これに頼ることもできない。では、遅れは相互的だと見なすことが正しいのでしょうか。しかしそれでは旅の終わりに出会った二人に年齢差は生じません。相互的であるなら、いかなる設定も両者の時間の流れに差をつけることはできないのですから。年齢差が生じないのに、時間の遅れだけが存在すると言うことはさすがにできないでしょう。上記の二つ、光の速度と絶対空間に頼った運動量の確定法があり得ないということは、知ることができないという知識論ではなく、原理的に運動量の差が存在しないという意味です。確定できないということですらありません。
 地球の方が宇宙船よりも圧倒的に巨大であり質量も大きい。従ってこちらを静止系の基準と見なす。これは一見妥当な意見のようですが、実はニュートン的な宇宙観であって、相対論内部にあってはならない考え方なのです。それは双方を一段広いマップすなわち絶対空間の上に置いたとらえ方なのですから。しかし、おそらく相対論を信ずる学者たちにその認識はないでしょう。非ユークリッド幾何学はゆがみの記述にすぎないのにユークリッド幾何学と等価と見なすことは誤りである、という指摘が了解しにくいのと同断です。当の相手よりもこちらが大きい動きをする、あるいは小さく動くということは、他に不動の基準を設定し、そこからの距離をはかることでようやく決定できます。相対論の通俗的解説書で問題にされる例はたとえば地球から宇宙船が飛び立つという動き、あるいは重力で引き合うという動きなどで、これのみに思考を集中させているとただその二者だけを見ていればよい気がします。しかし全くでたらめな動きをする一組について、暫定的にせよ把握するには座標を仮想してやる必要があるでしょう。座標を仮想してやるとは静止系の上に置いて眺めるということにほかならないのです。
 私たちは日常において基準点を特に意識することなく自然に設定しています。動いたのが相手と自分のどちらであるか、またどの程度の速度差があるか、それを「あの電柱を基準において」とか「山の見える角度がこの程度変化する」などの厳密な計算も意識もなしに判断を下します。時間についても、自分の内的時間に問うより手持ちの時計すなわち地面に視点を置いた時間軸を信用するでしょう。このような習性が、客観的視点を本来は働かせてはならないはずの場面で(つまり相対論の内部で)自然に適用されてしまっています。