13 真の相対性は絶対時空間でのみ実現できる

 ニュートン力学は絶対時間、絶対空間を思想的背景としていると常に言われます。すなわち宇宙を外から眺める視点で描かれる世界観ということです。だがそれは事実ではありません。閉ざされた空間、そして中心に太陽があるというコペルニクスの宇宙像とニュートン力学との組み合わせなら確かにそうなるのでしょう。しかしニュートンは時空を無限大としました。
 残念ながらその深い意味を理解する科学者はほとんどいません。コペルニクスの宇宙ではある人の居場所が決まれば、外から見ても同じ位置にあります。しかしニュートンの無限宇宙では、外からの視点は取りようがなく、内部から参加するしかないのです。したがって真の相対性が確立されます。この言葉は、無意味な形式論のごとく、最初は響くでしょう。
 相対論批判の立場をとる人でも、「相対論は間違いだ。したがって絶対空間は存在する」と言ってしまいます。真空中に基準となるような指標が存在し得るかどうかという、相対論成立前からの課題に対する答えなのですが、正しく答えられるという考え方が、むしろ相対論的な全能感からきているのではないでしょうか。でもそれは宇宙全体を展望できる知識と一体のもので、人類が達することの可能な領域とは思われません。知識は常に暫定的です。この条件下では、ニュートン力学とガリレオの相対性理論の組み合わせが、有効に機能する唯一のシステムだと思われます。空間の絶対性に結論を出す必要がないからです。
 現時点での科学技術で、例えば射手座方向への光と、てんびん座方向への光に有意義な速度差が認められないとしても、だから絶対空間が存在するとの断定は性急にすぎます。そして将来速度差が検証されたならば、その時に理由ともども考えてみればよいことです。

 地表にじっと静止した石が、果たして絶対的空間の内部でも静止しているのか、運動状態なのか、当面は見分けることができません。なぜなら、地球、太陽系、オリオン腕(銀河系のいくつかの腕のうち、太陽系が所属するのはこれです)、局所銀河群の動き、という連鎖の、どこに区切りを付けるべきかわからないのだから。
 通俗科学、および科学史の中で繰り返された単純な誤解について、ここで考えておくべきでしょう。通念とは裏腹に、ニュートン力学に絶対的な空間は存在しないのです。列車の中にいる私と、目の前にある荷物との関係を調べるのは列車という部分的な空間の中であり、地上にいる人がこれを見るときは地表という別の静止系の上に置かれます。もっとも、この静止系というのは適切な表現ではないのかもしれません。より大きな座標の上にすでに乗っているという含意が生じます。地表に座標の基準を置く、と言うべきなのでしょうが、後続の文で視点を広げる描写をするので、イメージとしてこう書きました。
 さて、地球の動きは太陽を中心とする座標の中の出来事であり、さらにそれは銀河系の空間の内部で位置を与えられます。いかなる意味でも「絶対的空間」との関係で問題を論じられることはないのです。相対論に反対する人たちでも、この点には異を唱えたくなるかもしれません。しかしできるだけ包括的な空間を考えることと、それを絶対的な空間とみなすことは、やはりまったく別のことです。
 私たちはこの相対的空間の切り取り方を無限の可能性のレベルの中で選べるのだから、そこで選ばれたレベルが絶対的空間と結ぶ関係は、根本的に無意味と言えます。これは私の内的時間を他者からの視点で論じることが無意味であるということと同じ種類の議論であり、私たちはぼんやりしているとすべてを客観的視点で構成できるかのような理論の持って行き方に、何か深い裏付けがあるように誤解しがちです。だがそれは、そこにある相対性を無視しておきながら、意味のない絶対性をおいてしまっている状態であるといえます。これはすべてが相対的であると宣言しながら、結果的に絶対的な何かが背後に想定されている、ということです。絶対的な何かとは日常的思考における私の立場を、そうとは察せずに、究極の根拠としてとらえることです。
 例として、おそらく語りつくされたであろうありふれた状況から述べます。行き先が正反対の列車がホームを間に挟まず直に隣り合って止まっており、どちらかが動き出したとします。窓際に座ってぼんやり隣の車両を眺める人に、もし加速度についての体感がなければ、動いたのは自分の乗っている列車か相手方かはわからないでしょう。これはAを基準にしてBを動いているとみても、Bを基準にとってAを運動系とみなしてもよいということの分かりやすい例とされます。ガリレオの原著(註1)では航海中の船の上の出来事が語られました。多くの人はこの例で納得するし、私も妥当な説明だと思います。では、「したがって、すべての運動は相対的である」と続けて言われると、どうでしょうか。これは話者の術中に落ちているし、このような話になることからすると、残念ながら話者自身も理解できていません。重力とエレベータ移動の同一視もこの延長線上にあるわけです。
 列車どうしのみで考えると、動きは相対的です。しかし地面の上において考えると、明らかにこの相対性は成り立たちません。この場合、地面に基準を置くというのは、単にA、Bに対して別の視点を導入するということではなく、両者を包括する一段階広い視点を入れるということです。この視点に立つことによって、列車個々の視点は相対化されます。すなわち、相対性とは「AからBを見ても、その逆でも同様に説得力のある説明ができる」ということではなく、「常に、より包括的な視点が可能である」ということでなければなりません。たとえば地動説とは、「地球の周囲を太陽が回る」から「太陽の周囲を地球が回る」への変化ではないのです。「どちらも両者を足し合わせた重心の周りを回る」への変化です。
 同時に、地面に視点を置いた場合、すなわち地面そのものは動かないと仮定した場合、動いた列車はどちらであるかが、明瞭に識別できるのでなければならないでしょう。ここでAから見てもBから見ても同じ理屈が成立する、ということは許されないのです。別の例を引くなら、エレベータを引っ張り上げる運動と重力が同じであると言うことは不可能です。それが可能なのは、エレベータに閉じ込められた人の視点ですべてを記述する場合のみであり、この場合には引っ張り上げるということが外から加わる力になっているので、最初から間違っています。
 列車の例で、地面に置いた視点は、さらに大きな太陽系という座標を導入することで相対化されます。この時注意すべきは、動いた列車がAであるかBであるかという問題が無効になるわけではなく、地面基準でどちらが動いたかは絶対的な事実として残る、ということであり、加えてもうひとつ、「地面視点での記述が理解できたなら、必ずそちらに従うべきであり、電車に乗った人の視点は不合理だから排除される」というわけではないことです。「さらに大きな視点」で相対化できるということと、局所的な出来事に注目して、すなわち乗客の気持ちになって相対化できるということは、まったく別の問題だからです。局所的な視点のまま地面に固定した視点が相対化できる、ということが、相対論の主張なのであり、これは完全に間違っています。よくコペルニクス的転回という言葉が使われますが、見たままを正しいとする相対論の自己中心的な考え方は、むしろこれこそが天動説の側であることを示しているのです。
 いかなる視点もさらに広い系から眺め得る可能性を残すがゆえに、暫定的です。宇宙全体を扱う場合でも、これは絶対的と考えるべきではなく、相対化される余地を残します。つまりニュートン力学で絶対的空間と言うとき、たとえば地面に置いた視点を用いたら、その内部では相対性を許さないということであって、外部に対してではありません。外部に対してはもちろん相対化され、しかしそれはさらに内部の乗客の視点が相対化されるということではなく、それを描く丸ごとが相対化されます。太陽系に視点を置いた時、太陽は固定されるのではなく、地球そのほかとの重心のバランスによって、わずかだが位置を変えるのです。これは採用される時間についても同じであり、Aの乗客とBの乗客が、不便を承知でまったく食い違う時計を使って、それぞれの時間を定義してもよいのです。相手の時間の進み方がおかしい、と言うことも正当であり得ます。しかし地面の視点を採用するとき、相対的な時間定義は廃棄され、一つの仮想的な「絶対時間」、じつは暫定的な時間軸を採用するのでなければなりません。
 もしもあくまで乗客の視点にとどまるつもりならば、自分が静止していると感じるAから見てBを記述する場合の空間論と、逆の場合の空間論が等価であると認めてもよいのでしょうか。しかしあからさまな非対称性がここに存在します。AかBのどちらかにとって、自分が静止していると言うためには相手が地面ごと動いていることを認めることになるでしょう。これが相互的にならないのは、一方は動いているものの外延が確定できないからです。つまり通常の意味で、Aが停車しておりBが動いたとするとき、Aの乗客が「Bが動いた」と言うことは正確な内容です。この正確は「動いた」ではなく「B」にかかります。しかしBの立場に立った時、Aとともに動くのが地面であるのか地球であるのか銀河系であるのか、明確にすることはできません。宇宙全体、と言うにしても、それを一つの量としてあらわすことはできないはずです。したがって、単純に科学として無意味なのです。つまり力学として正しい結論を出すつもりなら、「車輪が回転したことによって、Bが動くのはもちろんだがその反作用によって地球も反対の方向に何ほどかは動いた」と言うべきなのですが、その値があまりに小さいからではなく、地球、太陽系……という全体量が明らかになることがあり得ないから、計算が成立しないのです。それが、絶対空間が存在しないということの意味であり、存在するのであれば問答無用にどちらが動いたかが決定できるはずです。
 以上を要約すれば、自己中心的な、すなわち主観的な見方と客観的な見方との一対一の対立があるのではなく、客観的というものには様々な切り取り方のレベルがあり、したがって絶対的な見方、つまり絶対時間、絶対空間を支持する要素は存在しないと言えます。また、切り取って明確に範囲を指定しない限り、科学的な記述はできないでしょう。この場合には幾何学ですが、それが集合論(たとえば棘皮動物に属する、など)であっても妥当な言い分です。その内部で成立することは、すべて暫定的な「絶対性」で、その外側に言及するときすべては相対化されます。しいて絶対性を主張するなら、自分自身の計測する時間、長さが唯一の基準であり、いろいろな客観性のレベルを切り取るときでも、これが反映されるようにすることが、絶対的な時空間の意味です。
 ひとつ、特に述べておくべきことがあります。空間について何か言うとき、私たちは架空の大きな方眼紙を広げ、そこに固定した視点で語ることになります。この広げ方やどこに固定するかということについて、特に自覚する必要はありません。話が通じさえすればよいのです。しかし自覚しないとしても、それが存在しないかのように誤解してはなりません。たとえば地動説は、最前私はひとくさりの理屈を述べましたが、太陽を固定した視点で語ってもかまわないのです。太陽も微妙に動くとあえて言うときは、仮想の方眼紙はもっと外側の遠くの星、おそらくあまり動かないものとそれらを予想して、それを基準にとる形で広げられるのでしょう。ですがそれが絶対空間であるとは言えないし、ましてや視点をどこにも据えないなどという勘違いがあってはならないのです。私たちは自覚しないだけなのですから。
 そしてここまで述べてくると、ある重大な符合に気づきます。エレベータの思考実験において、アインシュタインは光も重力によって曲がると結論しました。無重力空間を上方向に向かうエレベータ内において、床と水平に放たれた光線は、内部の人間にとって、床方向に曲がるように見えるからです。この時、エレベータ外の視点で光が直進するという知識が書き手にも読者にも前提されています。これはまさに、隣り合った列車どうしで、どちらが動いたかという問題と類似のかたちではないでしょうか。優先すべきは地面に置いた視点であって、列車内のそれはその一部にすぎません。同様にエレベータの思考実験においても、外空間の視点で語ればすべてが矛盾なくまとまるのです。すなわち光は直進するのであり、この例によって光と重力の関係は何一つ証明されません。

 註1 ガリレオ・ガリレイ、Galileo Galilei (1564-1642) 、『天文対話』(二つの宇宙大系についての対話)
"Dialogo di Galileo Galilei Linceo matematico sopraordinario dello stvdio di Pisa." 、Fiorenza: 1632.