双子のパラドックスは年老いた方と若い方、二つの状態の重ね合わせを最終的に要請する、と書いた。これはシュレディンガーの猫における全く死んだ状態になった猫と生きた猫の重ね合わせ状態を想像させる。量子論の重ね合わせはそういうことではないと言われるだろうが、その量子論的重ね合わせの結果が生きているのか死んでいるのか不明な猫になるという意味では、結局同じではないか。そちらには触れずに進もうと思ったが、それはどこか卑怯なことのように思える。
卑怯かどうかはともかく、私は常々専門家の解説に不満があって、というのも、量子論の分野にもいろいろな立場があり、専門家はもちろんいずれかを支持するのだから、その立場に沿った解釈を正論とする。だがその立場の違いがそもそも一般読者には理解できていないのだから、話がよくわからない。立場の違いを理解するためには量子力学の歴史からおさらいする必要があるのだろうか。
私は少なくとも、なにがよくわからないかだけはわかる。ソクラテス的かつ禅問答的だが。そのわからなさはみんなと共有できるはずだと思う。そこに、わざわざ書く意味が多少はあろうと期待したい。
なにが謎なのか。一応概略を書いておく。
例えば小さな箱を用意し、中に電子を一つだけ閉じ込める。電子はひとつの粒であり、同時に波でもあるとされる。要するに、この部分が最後まで謎なわけだ。波である時どういうものであるかはほかならぬシュレディンガー方程式によって計算されるが、確率論的、もしくは重ね合わせの状態であるということになる。ざっくりいうと、たちどころにこの箱いっぱいに広がることになる。箱の中のどこかにあるのではなく、すべての場所に、しかし確率論的に存在する(こんなことにいちいち、どういう意味かと立ち止まる必要はない)。重ね合わせ(superposition)とは波として見たときの、この状態を指す。波として「見たとき」とはいうが、これは直接検証することはできない。あくまで理論上の要請である。
波と見ると箱いっぱいに広がっているはずなのだが、電子は電子であり、大変ちっぽけなものに過ぎないので、もし箱をのぞきこんでそいつを見ようとすると、どこかの片隅に、小さくまとまって存在している。波はどこにもない。
これってどこかがおかしい、と誰もが感じるだろう。シュレディンガーもそう思ったらしく、だから猫のたとえ話を出した。しかし「シュレディンガーの猫」をどこかで聞いたことのある人はここまでの話で「あれ?」と違和感を覚えるのではないか。以上の問題意識は、背景となる理論はもちろん極めて難しいが、どこに疑問点があるのかは、そう難しくはない。要するに、箱いっぱいに広がる波であることも、一つの極小粒であることも、どちらも全面的に正しく、かつ同一の存在であると素粒子論は主張する。それはおかしい。しかしあの話からこの単純な疑問を読み取ることはなかなか困難だと思う。むしろ今みたいにストレートに語ってくれた方が分かりやすい。これをとりあえず「小箱の中の電子」問題と呼んでおく。
その「シュレディンガーの猫」は、以下の通り。
中身の見えない箱を用意する。放射性物質を中に入れる。放射性物質はいつかα崩壊するが、それがいつになるかは完全にランダムである。その際放出した放射線を検出するガイガーカウンターと、それが放射線を検知したとたん青酸ガスの容器を壊すからくり仕掛けを入れておく。そして猫を閉じ込める。
放射性物質が一時間内に崩壊する確率を50パーセントとする。装置を仕掛け、さて一時間後に開けてみる。猫は死んでいるのか、生きた状態で出てこれるのか。量子論内の結論は、死んでもいるし、生きてもいる、ということになる。
ここで強調すべきは、量子論的思考によって、崩壊確率が50パーセントであるとは、この一時間のあいだに装置内で、崩壊している状態とそうではない状態が同時進行しているとみなすということで、どちらかが起こったわけではないということだ。でもこれはシュレディンガーの細工が過ぎたというべきで、一つの電子が波か粒子か(要するに「小箱の中の電子」問題)ということであれば完全にミクロどうしの関係であり素粒子論の内部問題だとわかるが、猫の生死はマクロの問題だ。おまけに、このパラドックスのかたちだと、ミクロの事実をどうマクロの現実に架橋するかという問題のようにミスリードされる。しかし見てわかる通り、放射性物質のα崩壊もガイガーカウンターの計測も青酸ガスによる猫の死も、全然ミクロではなく等身大の出来事である。もちろん人生でそんな経験に巡り合う人はわずかだろうけれども。
つまりこれは頭から終わりまでがたとえ話なのであって、ここから現実的な謎を引き出すことはとても無理だろう。そのことが気がかりなのか、このパラドックスには多少のヴァージョン違いが後の人によりいくつか考案された。発射された一つの量子のスピンがアップかダウンかを計測するもの、発射されたのは光子で、半々の割合で透過する鏡に当てて、反射されれば感知器に飛び込む形になっているものなどだが、半分の値で青酸ガスを入れた容器が壊れ、哀れな猫が死に至るという筋書きはいずれも踏襲している。
だがこれらはどれも「ミクロとマクロの関係を考察するパラドックスである」という間違った前提を強調するシナリオだ。しかし逆を言うなら、それらを考案した専門家たちも、このパラドックスをそういうとらえ方で見ているということになる。そしてそれはたぶん誤解ともいえない。当然の理由があると思われる。しかしそれこそが、素人目に最も不可解な先入観に映るのだ。
専門家がほぼ持ち得ない視点が一つある。それは、素粒子論が土台から間違っているという考え方だ。私は直ちにそう言いたいわけではないが、その方向から見た場合に一連のパラドックスはどうなるかということは、考慮の余地があると思う。少なくとも、門外漢がこの問題を理解できないと感じるということは、心の核心部分でのなにかしらの拒否感を示している。拒否感を言語に翻訳すると「そんなの絶対正しいわけないじゃん」となるのではないか。ならば、反対側からなら理解の糸口があるのではないか? これは単純な否定ではない。つまり、間違っているという前提から見直して、改めて素粒子論を肯定するという道筋もあり得るのかもしれない。
その、素人ならではの視点で書きたいところだが、もう少し必要な前提を語らねばならないようだ。
シュレディンガーが言いたかったことは、「今の(つまり彼の時代の)研究者たちは素粒子という存在をこの猫のようなものとして考えてるんだよ、どう見たって不合理だろう」という皮肉だ。なので、当時も現代の専門家も、これを反駁するのは当然だと思う。
この猫のようなものとは、存在そのものが確率論的なもの、ということになる。小箱の中の電子において、それが波状態であるときは箱のどの場所に電子が存在するかは確率によって決まる。古典論では、その場所に電子がある確率が何パーセント、という考え方をするから、もし或る場所に電子があるならほかの場所は0パーセントになる。量子論では、あるとされる確率があればそのすべての場所にあるとみなす。
例えば箱を二つに仕切り、電子を一個投入して蓋を閉じる。電子はちょうど仕切りのほうへ向かったので、右と左のどちらに電子が入っているのかわからない。半々の確率のような気がする。で、ふたを開けてみたら、右側に見つかった。
この時、古典論ではずっと右側にあったと考える。量子論では、どちらにも存在していた、しかしふたを開けた時に物質波は収束し、右側に一個の電子として現れた、と理解する。このことには、「波束の収縮」という科学的な言葉が用意されている。これはちょうど、ふたを開けた時初めて猫の生死が決まるのであり、それまで半々の確率の重ね合わせであるということに対応する。
ふたを開けた時に波束の収縮が生じることはもちろんあれこれ議論される。これを観測者問題という。ノーバート・ウィナー、ジョン・フォン・ノイマンなどという、超のつく天才がこの問題について書き残しているので、重要なことに思えるが、これは普通には無視してよい。なぜなら、そもそも自然は原則としていかなる観測者もなしで自立しており、しかしそれでもいろいろなことが進行しているからだ。難しい話に当たると、ついこの基本を忘れてしまう。私たちはもう一度素朴な実在論を見直すべきなのだ。
時折理屈っぽく、「しかし何かを見るために光を当てなければならないとしたら、対象に変化を与えるではないか。極微の世界ではその効果は無視できない」と言われる。しかしその場合には与える効果の物理量を慎重に計測するのであり、ここで扱われる「意識の介在」とは次元の異なる問題である。ニュートンがプリズムを使って太陽光の色彩を分けてみせる前から、太陽光は単色ではなかった。胃腸の働きが理解されるずっと以前から、消化活動は普通に行われていた。いくらなんでも、これらのことに疑いの余地はないのではないか? つまり、ふたを開けようが開けまいが、死んだ猫は死んだ猫であり、生きた猫は生きた猫である。したがって、同様に波束の収縮などということがあってはならないのだ。
あってはならないが、それは建前であって、もし量子論の言い分を通すなら、生きていてしかも死んでいる猫などという怪物が出来上がってしまう。観測者問題は、そのあまりに大きなギャップを埋めるための一つの手段ともいえる。
すこし煩雑ではあるが、この問題に寄り道して、あまり意味をなさないということを検証したい。なぜなら、少なくともこのパラドックスが関心を持たれる理由のいくらかは、この部分がよくわからないからだと思われる。心得ておくべきは、深い意味があると思わされているからわからないと感じるのであって、自然現象なんてものは人がいようがいまいが進行する、という大前提を忘れないことではないか。
シュレディンガーの原案ではブラックボックスの中に猫を一匹、そして箱の中身を観察できない人を一人置いた。これに対し、ペンローズがThe Emperor's
New Mind、(皇帝の新しい心)で、もう少し込み入ったモデルを提示している。私がこのパラドックスを知ったのがこの本だった。
シェルター並みに密閉された部屋を用意する。例の装置と猫を入れるのは同じだが、部屋には防護服を着こんだ目撃者を用意し、もちろん外にも見届け人をつける。
わざわざ目撃者を用意するなら、じゃあガイガーカウンターがあればそれでいいのではないかとか、猫ちゃんにも防護服着せろよとか、猫型ロボットでいいんじゃね? とか言いたくなるが、演出として実は多少意味があるのだ。多くの科学者が、猫の生と死が干渉しあう状態というストーリーを語っている。ガイガーカウンターが鳴るかどうかのせめぎあいでは、なんだそりゃとなるが、生と死とくれば大変もっともらしいではないか。本当に、その程度の意味しかないと思う。
観察者が問題になるというのは、確率の波が現実のこととして収束する瞬間がいつのことなのかを明らかにすることが解決の手始めと考えているからだろうか。つまり、猫の生死が明らかになるのは室内にいる猫の同伴者(A)が目撃するときなのか、扉を開けて室外のひと(B)が確認するときなのか。不思議なのは、ここで多数の科学者が、Aが猫の生死を知った時間でも、Bが知らないとき、猫は生きているわけでも死んでいるわけでもない状態であることを前提として受け入れているということだ。それを拒否することは決定論を受け入れることであるということがその理由であるらしいが、これはさすがに真実らしくない。真実らしくないというだけでは反論として足りないように思えるが、人の、単なる見方によってここまで現実側に違いをもたらすという解釈を受け入れることが、この説明の意味するところであるから、恐らく意識についての、そこまでの現実介入は、科学者としては認めないはずであるということを、先回りして言っているだけだ。
しかしここで真実らしくないと思う人でも、もしAが実験に参加せず、外のBだけが目撃者であるとすると、扉を開けたときが猫の生死を決定する瞬間であると言ってしまう場合もある。この二つの立場は同じだ。前者が真実らしくないのであれば、全く同じ理由で、後者も正しくない。もしAが猫の生死を確認できるのであれば、外にいるBに与えられる情報は問題ではない。もちろん猫の状態にこの情報伝達が変化を与えることはできない。ではこの同じ実験が、Bのみを立会人として行われた場合はどうか。常識的に考えて、扉を開ける前にすでに決まっていた、と考えるべきだ。多くの人が私と同じ認識であってほしいと思う。というのは、この部分のことだった。つまり件の科学者はここで、参加者がAだけの場合とBだけの場合とで、猫の不確定状態の時間が変わると認めている。そしてその理由を観察者の有無に求めるだろう。だが観察とは何を意味するか。
ところで、こういう込み入った話になると、まずは大前提に戻るべきなのだ。すなわち観測者問題はあってはならない、「なぜなら、そもそも自然は原則としていかなる観測者もなしで自立しており、しかしそれでもいろいろなことが進行しているからだ」ということ。
ペンローズがなぜこんな新奇な道具立てで語ったかというと、そこにも面白い理由がある。設定は上に述べた通り。核シェルター並みに密閉された部屋を用意する。例の装置と猫を入れるのは同じだが、部屋には防護服を着こんだ目撃者を用意し、もちろん外にも見届け人をつける。
彼はなんと、シュレディンガー方程式を出して、二人が何を目撃するかを計算で出そうとするのだ。ちなみに、その方程式は、
iħ∂/∂t|ψ〉=H|ψ〉
という形をしている。理解する必要はない(なぜ理解する必要がないかは、あとでわかる。とりあえず、こういうにぎやかし芸と思って、読み流してほしい)が、せっかくだから記号の意味を書いておく。ψは波動関数であり、ここに入る数字が存在確率を表す。それを囲む縦棒と「く」の逆のかたちは、ケットベクトルと言い、ある微視的物理系のある物理的状態を示す。つまりここでは光子の一粒がいかなる状態にあるのかを記述している。数字は波動関数で計算され、0から1まで変化し、たとえば|0.5〉ならば、50パーセントの確率です、ということ。シュレディンガーの猫は、生死の確率半々の状態の話をしているので、ここに入る数字はいつも0.5になる。
ⅰは言うまでもなく虚数。∂/∂tは、ψの変化の速さを言う。ħはh/2πの意味で、hはプランク定数だが、ħというのはそれをディラック方程式で変換した形。右辺の大文字のHはハミルトニアンというもので、系全体のエネルギーを特定の座標系によらない一般化座標上で表現している。どういうものを対象として扱うかで、いろいろな計算式がここに入るわけだが、量子論ではiħ∂/∂tという式になるよ、ということ。
数字は0から1まで変化し、たとえば|0.5〉ならば、50パーセントの確率だ、と述べた。これを猫に当てはめると、猫が生きた状態であればψ=1であり、死んでしまえばψ=0になる。ただし量子論では、光子の場合0.5どころか、どんな数字でも入りうるが、猫は1か0でしかありえない。これが「シュレディンガーの猫」のパラドックスの正体である、と言われると、何だかいろいろな理屈が可能であるように見えてくるだろう。だがここで怖気づいてはいけない。
さて、ペンローズのシナリオでは、発射された光子が、半メッキされた鏡に当てられ、そのとき(光子そのものではなくではなく)光子の波動関数は二つに分岐し、一方は鏡に当たり、センサーに向かう。センサーが感知したのなら、光は「反射された」のであり、感知しなかったのなら光は透過したのだ。これが室内の人が見ること。(ここで見逃してならないのは、結果が先取りされて、波動関数の状態が後付けで述べられることだろう)。そして、以下のようなことが語られる。
室外の者は、全体の初期ベクトルをすべて知っていると仮定される。光子はあらかじめ定められた状態で光源から放出され、その波動関数は二つに分解し、光子がその各々にある振幅はたとえば1/√2である(したがって2乗すると、1/2の確率が得られる。シュレディンガー方程式に虚数が含まれていたことの意味)。これらのことは、室外の者には単一の量子系として扱われるので、選択肢の間の線型重ね合わせは猫に影響を与えるまでずっと維持される。センサーが光子を記録する振幅は1/√2であり、記録しない振幅も1/√2だ。両方の選択肢もその状態の中に存在し、量子的線型重ね合わせの中に同じ割合で含まれている。外部の観測者によれば、猫は生と死の状態の線型重ね合わせのままである。
こういう、何となくわかりそうでわからない記述が続いた後、室外の者の線形結合、|ψ〉=1/√2{|死〉+|生〉}は、室内の人間にとってはすでに無意味である以上、結局意味がなくなるのではないか、状態ベクトルなんてものは心の中にしかないのではないか、と言い出してしまう。
何のことはない、わざわざ量子力学の複雑な計算を持ち出さなくとも、常識的な言葉で考えた結果と同じなのだ。すなわち、すでに死んでいる猫(あるいは生きた猫)についてあれこれ述べても、それは空理空論というものなのだ。
そのことにちょっと未練がありそうに、室外からの何らかの実験関与によって、内部の状況に変化を与え、|死〉か|生〉の二択に導く方法がないものかと考察し、それはあり得ない、なぜなら要するに猫の死と生の状態が互いに干渉しあっているのだから、量子論ではその中間の答えしか出ない、と結論する。
この後、これまでに出されたさまざまな解釈の紹介に移ってしまうのだが、その中には有名な多世界解釈とかファインマンの経路分析、フォン・ノイマンの行列密度などが含まれる。これらに対してペンローズは正直に「あまり信じられない」という。理論的な反駁ではなく、要するに、そんなこととてもありそうにない、という素人の感じ方と大差ない。でも、大事なのはそれなのだ。当たり前の大前提を、複雑極まりない理論によって見失ってはいけない。
ペンローズの出した結論を、一応述べておこう。「量子論には根本的な改革が必要であるように見える」だ。ジョン・ホーガンの「科学の終焉」で、マレイ・ゲルマン(量子論の大立者)がペンローズをくそみそにけなしていたような記述があり、読んだ当時はわからなかったが、なるほどこういう裏があったのかと改めて知った。この点ではペンローズのほうが誠実で正しいのではないだろうか。
ところで、最後のほうで非常に重要なフレーズが出た。いわく「猫の死と生の状態が互いに干渉しあっている」。もちろんすでにお分かりのように、猫はすでに死んでいるか生きているか、なのだから、生と死が干渉するなどということはあり得ない。だが錚々たる科学者たちがこの生と死の干渉という魅惑的な観念につられてしまう。
以下は少しばかり傲岸不遜と感じられる書き方になるかもしれず、何様のつもりなんだよと言いたくなるかもしれないが、その点はご容赦願いたい。私はこれでこそ徹底的に一般人目線での語り方であり、庶民の側であるという強い自覚を持っている。私がまず言いたいのは、権威を恐れず、自分の頭で考えようということであり、そのことだけは一貫させてゆきたいのだ。「量子論を理解した気になって文句をつけるなんてバカじゃねえの」という人は、なぜそれを正しいと考えるのか、逆に聞いてみたい。本当に理解しているのだろうか。わかってはいないけど、あまりにもたくさんの偉い人が正しいと言っているから、正しいはずだと信じているだけではないのか。もうそういう時代ではなくなるんじゃないの? 情報があふれているということは、逆にいいように情報で操られる危険も高まるということなのだから。
専門家が私をばかにするのは、まあ当然だろう。しかしそうではないなら、立ち止まって考えるべきだ。「シュレディンガーの猫」が解きがたい謎であるのは、絶対に正しいことを言っているはずだという、量子論全体に対する、過度の信頼の結果ではないか。日常生活においては、わからないことを分かっている気で進むことはある程度の必要悪ではある。しかしこんな現実離れした問題に、そんな習慣を持ち込むことはない。
私の信念は、どんな難解なことでも語り方によって、もっと多くの人が理解できるはずだということなのだ。
まず、おおざっぱなところから行きたい。シュレディンガーの猫が提起している問題とは、今まで一個の極小物質と思われていた電子や光子、その他の基本粒子が、実は波動の性質をも併せ持つということの不思議さ、矛盾点ということになる。「猫は波動などではない、もし波動であるなら生きた猫と死んでいる猫の重ね合わせという不思議なものを我々は見ることになるが、絶対にそんな存在はあり得ないよ」ということがシュレディンガーの言い分だった。
ほかならぬシュレディンガー方程式の考案者がこんな奇妙な思考実験をこしらえたのだ。これは何となく不思議な行為であるように思える。つまりおのれの考案した決定的な成果を論争の種として危険にさらすような挙に出たように見えるからだ。
彼はシュレディンガー方程式の扱われ方に不満があった。現在まで続く素粒子論の主流派はいわゆるコペンハーゲン学派ということになる。細かな意見の違いが内部にはあるだろうが、一つの大まかな意見は、単なる波に過ぎない存在がなぜ物質へジャンプするのかということについて議論しない、ということになろうか。つまり波動関数は実験結果を記述するのに適してはいるが、物質波などというものはないということであっても差し支えない、という考え方をする。何しろその数式には虚数iが入っている。2乗して初めて現実的な回答が与えられる(すなわち実体化する)とはいかなる存在なのか、だれにもわかるわけがない。
シュレディンガーはそういう日和った見解に対し、「いや、物質波は確かに現実的なものとしてあるのだ、ちゃんとそういう線でおのれの方程式を理解してくれ」と要求したのだった。
これは普通だったら藪をつついて蛇を出す結果を招いても仕方がない。しかしそうはならなかった。シュレディンガーには勝算があったに違いない。なぜなら方程式にはプランク定数のディラックによる変形(ħ)なるものが含まれている。そしてディラックの場の理論とは、ほかならぬ特殊相対性理論によってプランクの方程式を組みなおしたものなのだ。すなわちアインシュタインがおのれの側に付くであろうことが十分に期待できるのである。これを実在論的な解釈とプラトニズム的発想の違いとか、真実への情熱だとか、いろいろに言う人がいるが、私は単なる党派的な争いであり、シュレディンガーはおのれの方程式を神の座に祭り上げたかったのであろうとしか思わない。
事実は彼の期待通り以上の成果を収めた。つまりシュレディンガー方程式を疑問に付すような解釈は全く現れず、物質のがわ、いうなれば猫の実在性をあれこれいじくる方向へ進んだからだ。かの猫は箱の中で無数の波として、箱いっぱいに充満しているはずなのだった。しかし箱を開けた途端、ちゃんとした生物として姿を見せる。
もったいぶらずに、問題点の中心を語ろう。現在いろいろなところでパラドックスの解決と称するものを見ることができる。一般向けの新書などは、量子論がいかに不思議な世界観を見せてくれるかということを強調したがる向きがあるので、初めから期待できない。幼い人が好奇心を起こして科学の道を選ぶかもしれないということであれば、これもよい方法だとは思うが、謎の答えはそこにはない。ネットで漁れば、またさまざまなもっともらしい意見を読むことができる。たぶん、だまされる人も多いと思われる。しかしそれらは例外なく、問題を矮小化している(どう矮小化しているかはまた難しい話を含むので後回しにする)。
それらは物質の側について、いかにそれが分解可能かと論じるものばかりであって、シュレディンガー方程式を絶対確実な真理として疑うことをしない。いや、検討した結果が真理という回答であってもよいのだが、せめて公平に、疑ってみてくれよと言いたくなる。その手順が抜けているから、私ならずとも、納得できたという爽快感が得られないのではないか。
なぜならば、だ、どんなに現代の実験技術が進んでいても、波束の存在としての、いくつもに分解した電子、光子などというものを、作ることはおろか、見ることすらできないからだ。猫だから波束としての存在に無理があるということではない。ミクロの世界にもそんな面妖なものは、ありはしないのである。私たちは物質としての猫と、物質としての素粒子を見る(?)ことができるのみなのだ。
以下の文章を理解できるだろうか。もしくは、何となくわかった気になれるだろうか。特に前半部分。
“量子、例えば光子や電子はひとつの塊として我々は認識するが、実は物質波の束である。その物質派の状態を表現する計算式がシュレディンガー方程式であり、その中の項ψを波動関数と呼ぶ”
後半は用語の定義だからわからなくても当然として、私は残念ながら前半もわかった気になっていた。あとあとで、わかった気になっていただけだと気づいた。
これは、勉強して深く理解したら、以前の自分の理解が不十分であると気づいた、ということではない。いや、半分はそうなのだが、「光子や電子はひとつの塊…であるが、実は物質波の波束である」という文章は全く意味不明なのであって、それでも理解している気になっていた自分の不明を恥じるという気持ちだ。
ただ、もし人に聞かれたら、単純に「わからない」と答えるだろう。ここは一応謙虚に、もっと量子論を勉強したら、わかってなおかつ信じる、という状態に移行するかもしれないと言っておくが、たぶんそうなる見込みはない。つまり自分が理解できる範囲で言えば矛盾であり間違っていると思う。わざわざ反抗的人間を気取る必要はないから、対人関係(そんなもの昔から私には存在しないけど)の中で言いはしないが、ものを考えるとは自分の本心と向き合うということであろう。つまり考えるとは、自分のばかさ加減をおのれに対してだけはさらすということだ。
最先端の理論とは、はっきり言って単なる思弁の世界ではないか。つまり彼らが日ごろ見下したがる文学的な表現に満ちた世界なのである。ただしそこにいかにももっともらしい数式がついている。
現代はミクロの世界をそのまま体現したかのような機械に囲まれた日常を実現している。そのことで多くの人が、量子論は正しいという強い先入観を持たされている。これはひょっとすると勘違いかもしれない、ということをまずは認識すべきだ。それは例えばGPSシステムに相対性理論が使われているという都市伝説と同じ、一種のプロパガンダである。防衛大学の卒論のテーマとしてGPSを扱っている文章(あるいはどこぞの外国の大学でもよいが)を読むことができるはずだが、相対論の影も形もそこにはない。入り組んだ数字は、すべて積み重ねた技術の結果であって、思弁的な要素は全く見当たらない。
理論物理学という一大分野は、科学も技術も飛び越えた、全く別の学問体系なのかもしれない。私はそのことにネガティブな意味を込めるつもりはないのであって、人の性質としてあってしかるべきものだ。将棋やスポーツと同様の、一種のゲームであっても何ら問題だとは思わない。しかし量子論という理論が先にあって、そこからさまざまの機器が生まれたかのような卑怯な偽装はやめるべきだ。ICチップも、レーザービームも、スマホも、全く量子論とは無関係に誕生したのだから。ルールはフェアでなければならない。
たとえば、レーザー光について調べようとすると、少なからぬ割合の文章が、まず量子論を頭にもってきて語りだすだろう。ウィキを見ると、歴史的遷移ではまずアインシュタインの名が出る。ついで技術者の名前が並び、ちょこっとだけ、名だたる量子論の大立者がメーザー(当時レーザーはこう呼ばれていた)は不可能であると論じていたことが紹介される。だがなぜ不可能と思われていたのかはこの記事からはわからない。こういう情報に接すると、だれだってレーザーの開発は量子論のおかげだと思わざるを得ない。
しかしなぜ当時の量子論の研究者、ボーアやフォン・ノイマンらが不可能であると言ったのか。それはボーアの定理に反するからだ。すなわち、原子が吸収および放射することができるのは、定常軌道自体における電子の運動エネルギーの差と等しい共鳴エネルギー単位量のみであるという定理が存在するのである。
もし原子の放射・吸収が正確に共鳴周波数(エネルギーは周波数のみで決定されるという別の定理が存在する)においてのみ行なわれるのだとすると、それらの原子は平衡放射熱交換には関与できないし、また原子ごとに電子の定常軌道が異なるということは、それらの共鳴エネルギーが正確に一致することはないのだから、分子は存在しないはずなのだが。
もちろん間違っていたのは量子論の側であり、幸いにも、レーザーは開発された。しかも一部のレーザーはフラッシュランプ(ローマの休日などで、カメラマンが使っているやつ)による広帯域ポンピングが用いられていた。すなわち、共鳴放射は、レーザー遷移エネルギーよりも大きいエネルギーを持つ非共鳴ポンピング量子を吸収することで発生する、と考えてよいことになる。これはどういうことかというと、フラッシュランプは現代のレーザーとは違い、太陽光に近い、あらゆる波長を含む光を発する。量子論としては、こういう光源からレーザー光が出ては困るのだ。現代のレーザーは単色光を一つの素材に当てる。このような形だと、まさに量子論のいうことでつじつまが合ってしまうのであるが、それはさすがに後付けというものだ。
エジソンは電球を発明したが、電子一個の電荷が1.602176634×10^-19クーロンであることを知っている必要はなかった。また、原子内における電子の軌道がどうのこうのという知識もたぶんなかっただろう。必要だったのは、太い導線の先に、もっと抵抗の強い細い導線を取り付けて電流を通してやると、細い部分だけが発熱し、光りもするという全く経験的な知識だけだった。それをもとに数千回の実験の末、日本の竹が最良であるという結果にたどり着いた。
ジョブスもゲイツも、恐らく量子論など知らないだろう。すべて技術とはそういうもので、濁酒に灰をいれたら清酒になるのも、海水を煮詰めて塩を取った残り滓をつかえば豆腐が固まるということも、理屈は後からついてくる。二十世紀は特に科学技術が加速した時代なので、いわゆる理論物理学という思弁がちっともこれに追いつけないことも、ある程度致し方ない。
今、不確定性原理やプランク定数などという存在がまともに論じられているのは、宇宙論と、それからリニアコライダーみたいな加速装置の中で何が起きているかについて議論されるときのみだろう。そこは全くのところ相対論と同じで、正しいか正しくないかなんて、経験的には全く明らかにできないことなのである。つまり私たちの生活を豊かにする様々な技術を牽引する力はもう持っていないと思われる。もし、最先端技術が量子論や相対論のフォーマットで語られる例を見ても、すぐに飛びつくべきではない、と私は言いたい。どうにでも語れてしまうからだ。もうこの部分はゲームの領域なのではないか。
なぜ半死半生の猫という存在が語られ、科学者たちは理解した気になっているのか。理解できない、が正解だと思う。ただ、そう言う以上は、理解できないということの正しさをもっと示す必要があるのだろうか。
私の見解では「シュレディンガーの猫」は全く何の根拠もないただの作り話であって、どうつつきまわしたところで真実のかけらさえ見つかるはずのない、ふざけ切った二十世紀の汚点とでもいうべき代物だ。この背後になにかしら事実の根拠があるというとらえ方さえ、科学者たちの集団催眠に過ぎない。それがすべてだと思う。こう強く言ってしまうと、反発もあるかもしれない。しかし、もし自分でこの謎に挑みたいということであれば、そう考える人間もいるということも、一つの手掛かりにはなるだろう。
一応言っておくべきだが、これが私だけの意見であれば単なるピエロであろう。量子論は土台からの考え直しが必要であるという声はちらほら聞こえるようになっている。先にあげたペンローズもそうだった。
空間の中に物質がある。物質がいろいろ動くことで、エネルギーがやり取りされ、物質自体の変化も起こる。エネルギーは物質のみが持つことができる。では波とは何かというに、物質の微小部分の動きが一定の法則に従って伝わることだ。音も、海の波も。つまり、物質があるから波もあり得る。
この世界観を、軽蔑しきった態度で古典的と呼び、幼稚であるとして突っ走ったのが二十世紀だった。相対性理論は時間と空間は同じであると言い、続いて物質まで「場」という観念に押し込めて、全部一つのものの現れであると言った。量子論は物質と波は区別できないと主張し、空間を波で満たすことで、物質を消し去った。ついでにこの波にエネルギーの性質を与え、相対論のE=mc²と口裏を合わせ、ついに物質と空間の区別を全く無効としてしまったのだ。
でもそれはほんとうなのだろうか。単なるもっともらしい神秘主義なのではないか。なぜなら私たちの身の回りにある機械はことごとくが物質でできている。目に見えないものは、例えば電流なら電子の動きがエネルギーを運ぶのであって、それぞれ小さな物質が何かの働きをしている。そう考えて設計図を作るのであって、もちろん加工の対象も物質だ。何もない空虚から何かを引き出すような機械は未だに存在しない。空間が時間に、時間が物質に変化するような装置など現れる気配がない。百年もたつのだから、一つくらい実現してしかるべきではないか。
それは科学の最先端に技術が追いつかないだけなのか。もしかしたら、空間と物質という厳然たる二元論が、実は正しいのではないか。そしてその他のパラメータ、エネルギーや波は物質のみが持つことができると考えた方が、科学の進歩にとっては望ましいのではないか。
万能理論、何か一つの統一的な素材でこの宇宙のすべてを表現したいという欲求は、人類の出現以来時々みかける。エネルギーも波動も空間も運動も、さらには次元も物質という表現も、ある一つの根源的なマテリアルが見せる別の顔に過ぎない。こうまとめると、二十世紀の目指した方向がよく理解できる。あとは、信じるかどうかだ。私は少し病的なものを感じてしまう。
波は、量子論でどういうものとして扱われるのか。最も信頼度の高いとされる量子論の教科書の一つから引く。(L.D. Landau, E. M.
Lifshitz, Quantum Mechanics)、ランダウとリフシッツの「量子力学」から§19。カッコ内は私の補足。
「速度と座標(内の位置)とは一緒に存在することができない(つまり位置と速度を同時に確定することはできない)、ということの意味は、ある粒子がある瞬間、空間内の確定した位置にあるとすると、それに続く次の瞬間には確定した位置を持たなくなるということを表すのである(位置がわからなくなる、のではなく、位置を持たなくなるということに注意)」
念のため、すこし前の部分から原文を書いておく。
“The velocity, like the momentum of a particle cannot have a definite value
simultaneously with the coordinates. But the velocity multiplied by an
infinitely short time interval dt gives the displacement of the time dt.
Hence the fact that the velocity cannot exist at the same time as the coordinate
means that, if the particle is at the definite point in space at some instant,
it has no definite position at an infinitely close subsequent instant.”
すこしでもまともな思考力を持った人間がこれを受け入れてしまうということが、私にはちょっと信じられない。これは要するに、物質は確定した軌道を持ち得ないということだ。何となくもっともらしいが、しかしその不確定性が、すぐに無限大にまで発散してしまうということであれば、いったいこの原理が現実と関係を持ちうるのか、とても疑わしくなってしまう。
なぜなら、ミサイルは発射地点から目標物まで、きれいに軌道を描くではないか。様々な素粒子は宙空のどこかを通って大気圏に降ってくる。猫は近所の集会に出かけて、こっそり家に帰ってくる。確かにどこかの通り道を猫という物体として歩く。まさか集会を終えたらポンと消えて、つぎには自宅の庭に、たまたま、波がそろったおかげで出現するとでもいうのだろうか。
これらすべての常識的事実を、量子論は根本的に間違っているという。なぜなら物質は無数の波の、その複素数の波長(ここ、笑うところだからね)がそろった場所に、束として出現した結果に過ぎないからだ。したがって波として常に発散し続ける。波は確定した位置を持つことができないんだよ、君はそんなことも理解できないのかね?
間違っていると言われたって困る。猫は猫なんだから。ここには何一つパラドックスじみたものはないのであって、猫が猫ではありえないという理屈が間違いであることに、一点の曇りもない。
猫に波動関数を適用すべきではないのは、それはマクロの世界だからにすぎない。そういう意見もある。では、例えば猫を構成する量子は、猫という座標の中で確定した位置を持つ。次の瞬間それはもうどこかに行ってしまう。ではなぜ猫であることができるのか。しかもこれは猫に静止してもらっている最良の条件の場合であって、勝手気ままに動かれたら、その波動とやらはどうして次の場所に猫として「集まる」ことができるのか。位置を原理的に持つことができない、と教科書が言っているのに。
猫の体に水分があるとしよう。というか、絶対にあるはずだ。その水素原子に含まれる波束の大きさは、計算上、約10^-26秒間で 2 倍になる。その電子が最も安定した、すなわち一番内側の軌道を回るとき、10^16
秒間かけて一周する。ということは、水素原子核を一回りする暇さえ持てず、気の遠くなるような広範囲にまで電子の波は広がってしまうことになる。
ミクロとマクロは分けて考えるべきというのは、全くの気休めに過ぎないし、言葉で自分をごまかしているだけだ。半死半生の猫が理不尽であるなら、半死半生の水素や電子も全く存在しえない、理不尽な概念である。