多世界解釈はイベントの連なり、しかしイベントは一解釈に過ぎない

  2-16 多世界解釈はイベントの連なり、しかしイベントは一解釈に過ぎない

 多世界解釈は元をたどれば量子論をマクロ的な現実と滑らかにつなぐために編み出された、いわば弥縫策であったようです。ところがその量子論は、そもそもの成立時点で、相対論をベースにした「場の理論」を取り入れてしまっています。それがどの程度の汚染をもたらしたのかは、ここで論じ切ることは困難です。したがって、以下に語るいかなる概念も、エヴァレット三世の考案になる量子論的な多世界解釈に影響をうけたニュアンスを持たず、純粋に相対論内部での話になります。即ち、私の意見が万に一つ正しいとしても量子論的な多世界解釈への反論にはならないでしょうし、そのような要素があるとしても偶然の結果である、という前提にしておくことが正しいと思われます。

 相対論では量子論と類似した議論がいくつか存在します。それはあたかもすでに正しさの保証された量子論をなぞることで問答無用にこの理論の正しさを印象付けるやり方ではありますが、わずかの検討でこちらの多世界解釈は成立しそうにないことが明らかになるでしょう。そもそも、量子論がこのようなアクロバティックな理論を生む必要に駆られた、マクロ世界とミクロ世界の断裂は、相対論に存在しません。
 なお、すでに正しさの証明された量子論、という書き方をしてしまいましたが、私自身はそうは思っていません。しかし相対論に批判的な書物を見まわしたところ、量子論に肯定的である場合がかなり目立ちました。憂慮すべき状況ではあると思います。とりあえず、その点は今は問題にしません。
 相対論は多元的宇宙を認めることで成立します。こう述べることへの、いちばんの抵抗は、相対論はもっと現実的な理論であるという人々の先入観でしょう。そしてその次に多世界解釈のどこが悪いのかという反論もあり得るのかと思います。様々な、主としてエンターテインメントを通じて多世界解釈は極めて通俗的な形で理解されており、その形では誰にせよ受け入れるのに困難は感じないでしょう。今、通俗的な形と書きましたが、では通俗的ではない形がありうるのかというと、そういうことでもないわけです。
 多世界解釈をたとえエンターテインメント風味を排してまじめに語ったところで所詮は空想科学小説的把握以上のものにはなるはずもなく、残念ながらこれを支持する学者たちの誰もが全く事実を理解できていないように思います。私はいくつかの例によって既に示唆してきたつもりです。リゲルまでの距離は800光年でした。しかし地球とリゲルのあいだを横断する移動体に乗った人の視点では、その移動体の速度次第で距離は変わります。たびたび述べてきたように、たった一人の他者を想定して「彼の視点では500光年である」というような語り方をされると、この考え方に何かしら意義があるように思えてしまいます。しかし他者の視点が無限に多様でありうるのだとしたら、他者の視点で割り出した距離になどなんの意味もないのです。
 これが多世界解釈とどういう関係があるのか。そのような疑問があるかもしれません。すべての間違いの根源は相対論が一次元的の思考形態であることなのです。私がある対象を一次元的にとらえるとき、これを現実的な姿で復元するには幾多の重ね合わせが必要でしょう。どんなものでも多方向から見るべきであるという教科書的な原則論とこれは違います。ここで現実的とは最低限の日常感覚で見る程度に復元するという含みです。遠くにいるので小さく見える人、あるいは早く動いているので人間の形に見えない人も、近づいてじっくり見るなら自分とさほど変わりない姿であることがわかります。いろいろな見え方は、あるいは表面的な矛盾を含むかもしれません。ではその矛盾は別の存在を、あるいは別の世界を設定することを要求するのでしょうか。そうであるならば間違っているのは理論の方なのです。現実とは矛盾するかもしれないいくつかの見方による複合体だからです。相対論による計算が見せてくれる結果は、「いろいろな見え方」の一つにすぎません。このひとつの情報をもとに現実の像を復元することは無理だと思われます。
 何度も同じ例を引くのは恐縮の限りなのですが、10光年の距離を光の4/5の速度で飛来する物体は6光年の距離を7年半かけて移動するのです。ではこの時点で目的地まで10光年と6光年という二通りの世界が存在することになるのでしょうか。相対論はそれを肯定します。しかしこの6光年という距離を割り出した時空の結びつきによって、他の場所を見ることはできません。

 多世界解釈を支持する人というのは、常に、いくつかの選択肢の存在として世界をとらえているのだと思われます。しかし分岐は無限に存在します。「一つの選択肢」と思えるものの中に、無限の多様性がありうるのです。さらに、分岐となるべき時点も、無限の数だけ存在します。もちろんそんなことで論者がひるむはずはありませんが、それはひとつには「選択肢」「分岐」という言葉の心理的なニュアンスのせいであると思います。つまりこのことばで選ばれたルートは理にかなったものであるという含意があるからです。方や「確率」と呼称した場合のもうひと方は、自由意志による別の選択があり得たという、全く異なる根拠によるものとしても。この感覚を抱くと、分岐が無限にあることに気づけなくなります。しかしこの感覚の方が間違っていることは明らかです。
 例えば通俗的な選択分岐型ゲームや、タイムリープアニメのごとき内容で、人々は多世界を理解しているのであり、学者といえども思考レベルに違いはありません。つまりあるイベントに直面して、その後どう進むのかという選択が来るのです。選択は自分の意志によるのかもしれないし、どうにもならない他律的な要因に左右されるかもしれません。しかしどちらにせよ大樹が枝葉を伸ばす如く、あるいは進化の系統図のごとく無数に枝わかれしてゆくのです。
 しかし分節点となるべきイベントなど存在しないと私は主張したいと思います。それは後付けで恣意的に切り取った一断片にすぎず、前後と切り離して独立の存在を持つことはありません。イベントというものが人間的感情による創出物なのであって、この意味では世界は何事もなく平坦に経過してゆきます。すなわち、たとえば惑星に大きな岩塊が衝突することがあったとして、本当は衝突する前の長い平穏な期間のどこを切り取っても世界にとっては衝突の瞬間と変わりのないイベントとしての瞬間でありうるのです。そしてまた、私たちは惑星と岩塊という二つの空間占有物に特異な意味を見出しがちですが、そこを外した、何もない虚無の空間が重要なのかもしれない。そういう感じ方をする生物がいるかも知れません。
 まず、自由意志は存在しない、ということを言いたいわけではないことは理解してもらわねばなりません。もちろん自由意志の存在を否定できるなら、選択肢と思えていたものが実はそうではなかったということになりますので、可能世界のいくつかは消えるでしょう。だからと言って、一つを残してすべてが消去できる、などというつもりはありません。あってもなくても関係ないのです。私たちが有意味にできることが選択肢として認識され、それ以外が無視されるわけですが、これが正しいと言えるためには私たちが世界の理法をことごとく把握できているという前提が必要なのです。これはあるいは言い過ぎかもしれませんが、世界についての知識が増えるごとに他律的な可能性も自律的なそれも増加するのは間違いないことであって、自律的な方はともかく、他律的な部分について私たちの知識とは別に、既に可能性として存在しているものでしょう。
 この点での議論はあり得ます。新たな知識が得られるまで、その知識に基づく可能性はあり得ないというものです。しかし新たな知識が得られる可能性は、予測不可能なものであり、これ自体が無限の選択肢となりえます。現代においては、空間的思考における極小から極大までに及ぶ似たパターンの再現、時間的思考における進化論など、あたかも創出性の部分まで科学的に理解可能な装いの理論があふれかえっていますが、それらはすべてアナロジーの一種であり、世界を総体として科学的に把握できるという満足感を人に与えるものではありますが、すべて後付けのもっともらしさを説得力としているにすぎません。世界はこの瞬間にも全く新しい、以前にはなかった何かを創出し続けており、それは以前にあったこととどこか似たパターンで認識されるとしても、全く同じではありえないのです。人はマンデルブロー集合の図が単純な式からどこまでも複雑化してゆく様子を見て驚嘆しますが、どんなに複雑化しても、開始時点で3次元にすることを意図しない限り3次元の存在になりはしませんし、いつの瞬間からか生命を持つということもありません。つまり人々が称賛するほど複雑な代物ではないのです。計算できるということは予測が可能ということであって、人知の及ばぬ不可思議が現出したような態度は素人を威嚇する小芝居であると同時に、願望の見せる幻影ででもありましょうか。しかしいかに入り組んでいるとはいえ、たかが平面図ごときに宇宙の神秘が顕現しているかのような態度への同調を強要する科学者たちの態度はいかがなものかと思うのみです。
 既に指摘した通り相対論でいくつかの解がある場合に、それは解の数だけの世界、別の存在があるのではなく、重ね合わせの存在と理解されねばならないのです。この時、いくつかの重ね合わせと考えるから、私たちの体験が全く単独のものであり、重ね合わせとは無縁であることが理屈で回避できるような気がします。しかし重ね合わせはいかなる場合にも無限の選択肢の重ね合わせなのです。もともと厄介な矛盾なり、理論的な破綻があるから平行世界という解決に逃げるのでしょう。平行世界が数個程度ならば縋ってみることも悪い選択ではないかもしれません。しかし無限の数となると、この固定された一つの世界で合理的な解決を探ることと、無限にある選択肢の連続の中からなぜこの私の世界だけが体験されるのかという問いへの答えとは、単純に数字を比べるという意味での合理性において選ぶ余地があるものとは思えません。多世界解釈を必要とする理論はたいていの場合語り口によって選択肢が有限であるかのように装われていたので、多少とも説得力があるような気がしていただけのことです。付け加えて言うなら、後者は原理的に回答できない問いではないでしょうか。前者は「現にこうである」を確認するために「こうではない場合」を想定する方法を探ることができますが、後者は「私は現にこの世界を生きている」と何の根拠もなく言うほかありません。間違っているという証明はできないので、主張を押し通すことは可能ですが、理論にはならないのです。