2-1 因果関係の逆転は時間の逆流ではない
例えば地味な暮らしを送る人が、いつの間にか貯金が増えていたので、「そうだ、たまには海外へ行ってみようか」と考えたとします。これを普通の流れとして、別の人は海外旅行のために仕事を頑張り、節約して目標の貯金額に到達しました。この二人の行為には、明らかに因果関係の逆転があります。時系列で並べるなら、働く、貯蓄をする、海外旅行に行くだけの費用ができる、という具合で、同じようになってしまいますが、それならば借金をしてまず行ってしまう、という選択もあります。
この例はあまり科学と関係なさすぎるので、納得いきかねる人も多いとは思いますが、因果関係とはこうであればこうなる、という論理関係のことです。したがってそこには合理的な判断が介在するのであり、時間が決めることではありません。科学的な理論として認めてもらうためには、恣意的な判断を排除する、という了解があるのみです。いくつかの間違いをそぎ落として、もはや時系列順に展開する自然現象としか見えなくなった時、問答無用の因果関係と認められ、原因(理由)と結果の間を、理論の介在しない「時間」のみがつないでいるような気がします。
このようなことを徹底して考えたのが十八世紀の哲学者、デヴィッド・ヒュームで、代表作は「人性論」(The Treatise of Human
Nature)です。自然科学ベースで考えると、疑うべき限度を超えてありえない想定をさし挟むなど、おそらく彼は強く論じすぎていると思われますが、いまだに論理的関係がすべての時間によるつながりを取り込めるという幻想がある限り、一度は立ち返ってみるべき立場でしょう。
なぜここで、およそ科学の根本とは無関係に思えるヒュームを出したのかと申しますと、相対論のあまりにご都合主義の設定が、どう考えてもここに引っかかるからです。冒頭に書きました通り、因果関係の逆転とは、実はそこまで希な現象とは言えません。だが自然科学に親しむと、時間の方向と因果関係がイコールに思えてしまいます。そのことが相対論の妙な安心感と説得力につながっています。
例えば親殺しのパラドックスと呼ばれるものがあります。過去にさかのぼれるタイムマシンがあったら、自分の両親を殺害できる。しかしそうすると自分がそもそも生まれないのだから両親は生き延びる。よって自分はやはりこの世に出てくる。これは論理的矛盾だから、過去には行けないだろう。
ここまではまず誰も認めるとして、しかし未来へのタイムリープならあり得るという話もあるようです。このパラドックスは明らかに因果関係というものへの侵犯と感じられるので、過去への跳躍を誰も認めないし、相対論もきっかり、この点に理論の境界を置きます。つまり、時間の伸び縮みはあるが、過去へのさかのぼりは禁忌となります。この禁忌の存在によって、時間の伸び縮みということを安心して語れるようになります。
しかし理不尽さにおいて、時間の伸び縮みは過去へのさかのぼりとそれほど変わりないと私には思えるのです。これは一見奇矯な意見でしょう。でもすでに相対論はブラックホールやビッグバンという禁忌を犯しているのです。時間の流れが遅くなるなら、どこかで止まり、そして逆流するということはそれほど不自然とは思われません。そして私が言いたいのは、何より、実際に親殺しを行ってみなければ、実際のところどうなのかはわからないではないですか。もしかしたらその場で私が消えるかもしれないし、シュレディンガーの猫みたいに生死半分ずつの存在になるかもしれない。あるいは生きたり死んだりの無限連鎖に入るかもしれません。もしくは現在の常識では考えられない、とても風変わりな世界の到来、ということになるのかも。
そして、非常に奇妙なことに、相対論を支持する学者の幾人かは、親殺しのパラドックスなどは認めないが、熱力学の第二法則の逆転さえあれば時間は逆流するという説を述べています。まるで無秩序状態が広がることが時間の流れの原因であるような勘違いですが、そもそも無秩序が「増大する」といえるのは、時間に沿って理解するからで、熱力学の第二法則が逆転したなら、私たちは逆転したと認識するだけではないでしょうか。
繰り返しますが、因果関係とは自然現象ではなく論理の世界です。どんなに強固に見えようと、しょせん頭の中の出来事です(ヒュームさんによれば、ですが)。自然科学は人類が文明を持ち始めて以来、やむことなく普遍的な法則を求め続けてきたので、この分野に属するほとんどの因果関係は自然現象という域に達しました。しかし明らかに別の概念です。
物体の速度を上げることが時間の間延びを伴うものだとして、なにゆえ光速度に因果関係が逆転する特異点が置かれるのか。それは相対論を勉強すればすべて理解できる、と学者さんたちは言うでしょうが、ひとつ見逃せない事実があります。少なくとも光は光速度で動くということです。単純に考えるとこれは光が無時間であることを示します。しかし光の内的時間が止まっている、と言うことはできません。なぜならそれはどこかで生まれ、空間内を移動し、いつか消滅するからです。現実の世界内に存在して、周囲と関係を持ちながら、時間が止まった状態であることはできないでしょう。
それでも内的時間が止まった状態はあり得るという感覚にこだわる人はあると思います。光を、または光子を抽象的存在のように扱い、無時間的に扱ってもよいとする考え方もあり得るからです。例えば宇宙のすべての水素原子は全く同一の構造をしており、プロパティ上のアイデンティティー(すなわち同じ性質を持つ)、ではなく、トークン的にも同一視できる(すなわちすべての水素原子はたった一つの、同一の存在である、なぜなら奥にある数学的実在の、個別の反映であるから)、という意見をたびたび科学書の中に見た記憶があります。ではなぜ陽子や中性子の崩壊などということが問題視されるのでしょうか。トークンアイデンティティー上でも同一であるなら、すべての同一粒子が一時に崩壊しなければおかしいのです。光を時間から解放する手段などはありません。したがって光速度で移動する物体の時間を停止させる理論も本当ならば存在しえないのです。
この点はすぐに否定せずに、一つの選択肢として残しておきます。もうひとつ、光自体はそれ自身の固有時間を持つが、光速度に達した「質量を持つもの」、または電磁波以外のものは時間の止まった状態になる、という考え方もあります。ただしこの見方だと、光であることと光速度であることがまったく別の性質であり、光が光速度で動くことは偶然の産物であってもよいという見方もあるということになってしまいます。実際のところ、光はかなりの部分で理論上の光速度に達しない速さで動いています。その場合に光の時間は進み方が早くなるのか。そして、光が光速度でも時間を有し、同じ速度の質量をもつものが無時間的であるとするなら、時間を左右する要素は質量のみということになりはしまいか。
そしてもうひとつ、これが私には最も合理的と思える選択肢ですが、時間の進みの遅れとは、光の進行に視点を合わせ、これと同期することで全く止まっているように見える、という考え方もありえます。つまり光に対し等速併進運動している物体は光との時間差が0であり、遅くなるにしたがって時間の差が生じ、その差が結果として時間の進みとなる、というものです。相対論の考え方を注意深く点検してみるに、図らずもこの奇妙なとらえ方に陥ってしまっているということは、私には案外正確な描写であると思われます。
いずれにしても、何者にとっても光速度は変化なしということが相対論の大前提であり、止まっている物体からも、ほぼ光速度で動く物体からも光は光速度で飛び去ります。したがって、時間の流れは徐々に遅くなるということはなくて、光速度である場合にのみ突如として時間が停止した状態になるということに、本来であればなるはずです。もちろん解説書の言い分は「徐々に遅くなる」なのでしたが。
相対論の時間論は光と他の物質の動きを対比したときの簡単な演算、せいぜいそれを図面に起こしてあれこれ考える行為がもたらしたものです。光の、質量を持たないという性質は、他の物質が光速度に達しないという条件を作るために使われ、それが間接的に因果関係の逆転を禁止事項にします。しかしこの性質だけで時間を持つことの有無が左右されるわけではありません。要するに、光のみが「光速度で動くものは無時間的である」という理屈を免れる理由は今のところ見つからないし(着目すらされていない、というのが事実です)、これからも出てこないでしょう。あえて言うなら、これを規範として論じることはできます。つまり光の性質とはそういうものだ、と宣言することです。E=mc²の場合に、光がエネルギーを持つことは明白なのに、質量は0であると言ってみたり、あるいは重力で曲がるから質量はあると定義されたり、それなら今度は無限大の質量を持つはずであっても、さらになお光は例外なのだと言い張っていたことと同断です。どちらの場合も明白な反証なので、科学として成立しないとは思いますが、とりあえずそういう意見もあり得るということにして先に進みましょう。
もう一度繰り返すなら、光は世界のいろいろなものとの関係を実際に結んでいるのだから、無時間的であるとすることは全くのナンセンスであると私は思います。ところが、相対論のいかなる解釈も、光を無時間的とすることによってのみ救いの手立てが与えられる構造になっているのです。
代表的なタイムパラドックスは「双子のパラドックス」ということになるでしょう。超高速度で動く宇宙船は時間の進みが遅くなる。したがって宇宙をぐるりと回って帰還した人は、地球に残してきた家族や知人たちが自分よりずっと年を取ってしまった光景を見ることになる。これを例のおとぎ話になぞらえ、「ウラシマ効果」と言います。この話だけならば、ふしぎと感じるべきところはありません。しかし、これを一ひねりして「宇宙船に乗った側から見ると、逆に地球が超高速度で動いていることになるはずだから、どちらかが一方的に多く年を取るという想定はおかしいだろう」という形になると、解きがたい謎となります。これを「双子のパラドックス」と呼びます。
ある理論から導かれるパラドックスを解くということは、普通なら理論を肯定することになります。したがって相対論の支持者は解かざるを得ないはずで、実際にいくつもの回答が存在します。反対者は「パラドックスが存在するということは理論が間違っている」という主張になるはずなので、そこまで熱心ではないかもしれません。しかしこの問題について言うなら、もう少し正確に理解することで、相対論の外部に引きずり出す必要があるでしょう。明快な解決はその先にあるとおもわれます。
ウラシマ効果と双子のパラドックスという二つの不条理問題を構成する理屈は簡単にまとめると以下のようになります。
1:速度を上げるに従ってそのものの内的時間は進み方が遅くなる。
2:光速度で動く質量を持ったものは内的時間が停止する。
3:そして光速度を越えると時間が逆行する。
このうち項目1は文句なく正しいとされます。2と3は「仮に」そんなことがあったら、という話なのですが、2の方はブラックホールの特異点でいつの間にか禁忌が解けてしまいました。すなわちブラックホールの中心部では時間が止まった状態になっている、とされます。3についても、最近いろいろな入門的解説書や少し高度な科学書において、次第に解禁の方向へ向かっているようです。親殺しのパラドックスはどこへ消えたのかと聞くことは野暮なのでしょうか。
これらの仮定が現実にはないとされるのは、質量をもったものは光速度まで加速できないからです。しかし速度を上げるに従って質量も増えるという性質は、項目1の現象にまったく関わってきません。また、2と3が現実にはありえないなら、それは1を可能にする原理から導かれるのでなければ話としてつじつまが合わないでしょう。つまり「光速度で動くものは内的時間が停止する」と「光速度で動く『質量を持ったもの』は内的時間が停止する」という二つの文章について、いずれが正しいのかを示す理屈が必要であるように思え、かつ私には前者は正しくないと思えます。相対論の時間概念が正しいとされるためには、同じく光速度で動きながらなぜ質量のあるものだけが無時間的であるのかを理論で示すか、光速度で動くもの(むろん光そのものも含め)は無時間的であると言い張るか、いずれかでなければならないのではないでしょうか。そしてどちらもおそらく納得の行く回答はありえないでしょう。項目2はいずれにせよ不条理なのです。
ところで、理論的に解きほぐすということが相対論の枠内での解釈を示すという意味であるなら、それはとても無理でしょう。代わりに、ここに書いた不条理を回避し、なおかつタイムパラドックスに明快な見通しを示す考え方がひとつだけあると私は思います。光の、あるいは光と同じ速さで動くものの時間の進み方は、一見すると0のように見えるが実は違う、とすることです。つまり相対論の主張は、単にそこを基準にするということ、つまり0ではなく単位量である1と見なすことが妥当であり、一線を越えた向こう側は0以下のマイナスではなく、光よりは遅い時間の進み方すなわち0コンマいくつ、だとすることです。仮に光速度以上に達することのできるものがこの世に存在しないとしても、ここでは問題にならないでしょう。光より遅い時間の進み方をするものがない、と言えばよいだけなのですから。光それ自体は、固有の時間を持ちます。したがって、光速度で移動する物体は、光と共通の時間を持つはずであり、いかなる意味でも無時間ではありえません。
そこまでが第一段階で、さらに一歩進んで、これはただ見かけ上のことであり、科学として時間の伸び縮みを正当化することはできない、とすることが、正しい解決になると思えます。相対論において、すべてのパラメータは「光と比べて」という意味を持たされているのです。ではすべてのものに対して光は同等であり、したがって時間も同等なのです。私の固有時間は私と光の関係で決まります。誰にとっても光との関係が等しいのであれば、光を介在してすべてのものは同じ時間軸を共有していることになるのではないでしょうか。
以下に、これらの点を踏まえたうえでパラドックスの解釈を示します。私が提示したいのは、直接の反論であるよりも、なぜ相対論を多くの人が正しいと感ずるか、ということになると思います。これは大変消極的な意見のようですが、人間の時空間把握の本性を示せたらよいと願います。