以下のことは、なぜ相対論の主張するナンセンスな時空概念を人々は受け入れてしまうのかということへの、多少の考察です。したがって必ずしも理解することを求めません。
主観的、と私たちが言うとき、そこには明らかに二通りの意味を使い分けています。いい加減であること、すなわち間主観的という意味での客観性が欠如した状態を指して言うことがあり、それが主な意味と受け取られているでしょう。しかし一方で、裏付ける必要のない、絶対的な基準として使うこともあるのです。なぜなら客観的なものは主観によって肯定される必要があるからです。
両者は反対の方向を目指す概念ではなく、現実の方にむけられた一対の方法論であり、それらが一致すると感じられたときに納得感が生じます。2センチならこの長さ、30分ならこのくらいという感覚的な裏付けが、実は客観性を支えているのですが、そのことは忘れられがちです。これはどのくらいの長さだろう、と人に尋ねることも、定規に尋ねることも、どちらが主観的か客観的かということはありません。答えを貰って、それで納得すれば終了です。ついでに言うなら、この日常感覚の時間と空間を超えるような深い形而上的な意味がどこかにあると思うべきではありません。日常的なことが最も深く複雑なのです。したがって形而上的な意味はそこにこそ色濃く表れます。原子時計とボンボン時計の差は、どちらが正確で細かい刻みを表現できるかの差であり、原子時計が何か深遠な形而上学的概念によって駆動しているということではありません。
客観的な事実とは、同じ程度に主観的事実でもあります。だがこのことは忘れられやすく、客観的な事実のみですべてを成りたたしめる方法があると私たちは考えてしまいます。相対論はこの決定的な間違いの例でしょう。納得感、その感覚的な部分を他所からの視点に求めており、またそれを受け入れる人は感覚的な部分が説明されたと感じるのでこれを正しいと錯覚するのです。しかし感覚的な裏付けは当の本人にしか与えられないものでしょう。つまり真に主観的であることでしか客観世界は理解できません。これはポストモダン以降、制度による、あるいは習慣による刷り込みが私たちの主観に潜むという説のおかげで、大いに誤解される元となりましたが、それらのいわゆる偏見は取り除くことが可能なものです。間違いや幻想などという、根拠のない妄想が方法的懐疑として深い意味を持つという理屈を広めてしまったのはデカルトとそれに続く哲学者たちでした。彼らの説が、主観と客観の絶対的分離を招くもととなりました。あまたの貢献を台無しにする誤謬というべきでしょう。
ニュートン力学の空間を単なる数学的表現と受け取った場合、感覚的な部分の正当性までも求めているわけではないと解釈できる一方、それが絶対空間という名称であらわされるとき、おそらく感覚的な部分の正当性まで望んでいるという仮定があります。この違いは重要です。なぜならそれは理論の正しさとは無関係な否定および肯定だからです。
ニュートン力学の提示する時空が余りにも等方的、かつ画一的であることについて、不安な気持ちを誘われる点があるかもしれません。ここまで単純な時空間認識に「絶対」という名を冠するのは傲慢のようでもあります。方や、相対論はかくも複雑でありながら、視点による見え方の相違を根幹に据える点で、未熟な人間ごときに宇宙の全体像はなかなかとらえきれるものではないという、何となく謙虚な外観を持ちます。
ただしいずれも誤解です。意表をつくことでしょうが、神の視点と称されるような尊大な特徴はニュートンの時空間把握にありません。もちろん彼自身がどう考えていたのかは別の話ですが、絶対性という言葉で表現できるようなニュアンスは、その後の科学万能主義の中で徐々に形成されたものです。
二人の人物AとBが互いに目視できる場所にいるとします。それぞれの近くにオブジェがあったとしましょう。自分たちの近くにあるオブジェを方眼紙に写し取り、互いに見せ合ったとき、縮尺などについて約束事を作っておけば、後で共通の知識として役立つでしょう。まったく違う場所に行ってもこの方眼紙を使い、約束事どおりにスケッチすることに決めておけばさらに便利です。この方眼紙と約束事のセットが、ニュートン力学が堅苦しいばかりに画一的であることの意味です。宇宙の仕組みそのものにこのセットが組み込まれていると信じる必要はありません。それは哲学的な主張であって、科学が責任を持たなくても良いことです。もしかすると宇宙はゆがんだ空間なのかもしれません。その場合でも、ニュートンのセットはそのまま役立ちます。ゆがんだ空間の中では、方眼自体もゆがみ、物体もそれに従うからです。むしろ、なぜその空間の住人にゆがみが分かるのか、ゆがみが最初からわかるとする相対論のほうがとても変な話だと思います。
このように言うと、相対論のほうが系に依存しないより強い法則の同一性を打ち出している、すなわち相対論の提供するセットの方がより汎用性が高くなおかつ正確であるという反論があるでしょう。しかし相対論ではAに対してBのそばにあるオブジェの姿を写し取ることを求め、それはBが見たこのオブジェの映像と違うのだからBの書き写しは正確ではない、と言うのです。つまりたとえば静止するAが高速移動するBの時計を見てゆがんでいると思い、Bが時計を丸いものと描くのはおかしいという。
では何が正確な映像なのでしょうか。ごく常識的に、近くで子細に見ることが一番良いに決まっています。もちろん遠くからのほうが全体の概観が得られ、よい場合もある、などという批判は、正論かもしれませんが単なる揚げ足取りでしょう。ここで言うのは同じ静止系に属するものとして描写するという意味である……としても、移動するドローンを通して見るほうがよい、とさらに批判されてしまうのかもしれません。近くで子細に見ることが一番、というあいまいな書き方が悪かったのでしょう。ニュアンスが伝わることを期待するしかありません。
よく勘違いして説かれるのは、ニュートン的なものの見方が私たちの日常感覚に近く、相対論はそれに改変を迫ったというものです。そんなことはありません。私たちは遠近法で描写されるような具合にしか世界を捉えていないのです。例えば太陽は腕を伸ばして持つ十円玉の大きさにしか見えません。Bのそばにあるオブジェが、Aの位置からでは米粒大に見えますが、実は人の背丈ほどの大きさであるとしたら、それを理解するには想像による補正が必要でしょう。想像とはある意味での数学的な処理のことです。この補正を私たちはあまりに無自覚に遂行するので、ニュートン式の世界観が「日常的」と感じられます。しかしその描写はかなり理性を使った末の、複雑な解釈に頼った世界像なのです。
相対論こそむしろ、十円玉の大きさの太陽と米粒大のオブジェをそのまま肯定する理論です。相対論は複雑膨大な座標変換論であるという言い方をされることがあります。その場合に変換の式を通じて結ばれた二つの世界観は等値であることになるでしょう。しかし、その変換式の一方はあまりにアドホックな性質を持つため私たちは貫徹することができません。すなわち曲がった棒を空間のゆがみのせいであるとする理論体系は生活空間のほかの部分がどれもこれもまっすぐであるという事実をうまく説明できないでしょう。太陽を十円玉の大きさではなく、バスケットボール大に、あるいは砂粒程に見る視点もありますが、その上にいちいち力学体系を構築することはできません。
ここで一つ心配なことは、私が視覚的情報を例にして相対論の遠近法を述べてしまったことです。重く見える、短く見える、時間が間延びして見える、という遠近法は相対論の中に確かにありますが(注1)、小さく見えることをそのまま肯定する論法は存在しません。これはわかりやすく語るという目的で出した例ですが、全くの言いがかりであるとする非難はもっともなことです。ただし、小さく見えるという遠近法が存在しないことは、実は相対論の重大な欠陥の一つです。
現時点でこう言ってしまうことは、弁解にしても下手すぎると思われかねないことを承知で、先回りして書いておきます。相対論は2次元の幾何学と1次元の数式の取り合わせであり、3次元の現実を適切に扱う手段を持ちません。相対論はすぐに4次元時空などを持ち出し、ニュートン空間より広い視野のもとに組み立てられていると思われがちですが、それは単なる錯覚です。例えば光ですが、相対論における光速度はあくまでスカラー量であり、3次元のベクトルとして扱うべき場面であっても単純な量として処理します。だから、列車の思考実験もどきにおいて、列車の進行方向に沿った光線を考えると意味がありそうだが、逆行する光線を考えるとたちまち思考実験の体をなさないガラクタであることが判明します。もともと、相対論の思考内で速度がスカラー量としてしか存在していないゆえです。スカラー量とは、要するに1次元の計算式に還元できるということであり、数式で表現されるとどこまでも無矛盾であり得るからです。
註1 ヘルマン・クラウス・フーゴー・ワイル(Hermann Klaus Hugo Weyl)の著した『空間、時間、物質』(Raum, Zeit,
Materie、1918 )のなかで、特に強調される理念が、相対論は一種の遠近法である、ということでした。ワイルは理解を助けるためにこう書いたのでしょうが、皮肉なことに相対論の最も重大な欠点をも自覚なしに指摘していたことになります。