2-13 時間を恣意的に扱うことが間違っている
私が過去にタイムリープするというとき、私が過去世界へ行くのか、私以外の全宇宙が過去へとスリップするのか、判然としません。ナンセンスという以上に、過去とは何かを決める基準が実は外にあることが必要なのではないでしょうか。
この話の要点は、考えたこともない新規な出来事が場合によってはありうるということ、まただからこそそれがあり得ないという形での批判ではありません。私たちが今も普通に経験している、時間がこのように流れているという感覚が、実は錯覚であり、逆行している可能性もあるという、一種の懐疑論的仮定を認めることが、果たしてまともな思考として成立するのかという問いです。私はナンセンスだと思いますが、たとえばペンローズなどは時間をエントロピーに結びつけて論じる中で、その可能性をほのめかしています(Cycles
of Time: An Extraordinary New View of the Universe、2011。その他、ほとんどの著書で同様の主張を見ることができる)。おそらく彼にとっては過去や未来の区分けなどグラフ上の軸の方向に過ぎず、気ままに往復可能なものなのでしょう。その4次元的自由空間の中で、エントロピーが増大するという法則のみが時間の方向を決めると言うのです。これは、様相の表面的記述が原理の提出であると捉える、典型的な勘違いの例です。時間の方向が決まっているからこそ、エントロピーが増大するという統計力学が成立する、とまともな頭脳の持ち主なら考えるでしょう。彼の説によれば現在は宇宙が膨張しつつあるからエントロピーは増大する方向にあり、もし将来収縮に転ずるようなことがあれば減少のルートに入るのだそうです。そのとき時間の流れは逆転するのです。
だがそもそも膨張と言いうるのはなぜか、彼は考えたことがあるのでしょうか。過去において小さく、それがより大きくなることを膨張と呼ぶのです。逆を収縮といいます。エントロピーの流れや宇宙の4次元的な全体像を語れるのは時間の流れを日常感覚で把握しているからです。これは笑い話ではない、と言う必要があるくらいに、彼の考えは常軌を逸しています。たとえば、エントロピーが増大するとは、角砂糖という秩序をもったものが、熱いコーヒーに入れられて無秩序状態になるということです。では、現在宇宙が膨張している状態が反転して収縮に転じたとしたら、コーヒーに溶けた砂糖が角砂糖に変化するということなのでしょうか? しかしそれは砂糖だけを抽出し成型しなおすという行為で、時間の向きとは関係なく、別の手順を踏むというだけのことではないでしょうか。
これは単なる悪口で、正しい批判とは言えないという反論もあり得ると思います。そこで、もう一段階現実的な話をする必要があるでしょう。すなわち時間の逆転は考えないことにします。それは日常感覚側だけではなく、相対論内部でも実現不可能な空想話になるからです。すると、時間の差分の振り分けにおいて、マイナスの部分は消えます。
これによって何を得るのか。小さな私と宇宙すべての、どちらが過去へ向かう責任を負わされるかという二者択一は考えないでよいことになります。すなわち時間の流れが現にかくのごときものであるという感覚を持ち出す必要がなくなるのです。相対論的時間論側に味方するつもりなら、これは大事な論争点の放棄と最初は思えるでしょう。自由な4次元時空(自由とは空間だけではなく、時間についても行き来が可能であることを意味します。この自由とはもちろん意志による自由ではないので、可変的と呼ぶ方がよいのかもしれませんが)の存在を前提とした立場からは、通常の時間感覚側に対して順行、逆行の理論的根拠を求める権利があると思えるからです。ただし自由な4次元時空など認めない通常感覚の方から見て、論争する際にこの「一段階現実的なレベル」は相対論的時間感覚の側に一方的に有利な条件なのです。なぜなら、時間が現在のごとき流れの方向を持つことは動かしようのない事実であり、順行感覚は十分な論拠となり得るはずだからです。なおかつ、相対論としてあり得ない仮定であるとして語る場合でも、あり得ることと連続的な理論であると、通常時間の立場からは見えます。つまり時間の伸縮が可能であるとするなら、逆転は蓋然性の範疇であり、それが不可能であるのはアドホックな意見に過ぎません。相対論は、自由な4次元時空の、この自由についての制限は光速が課すものであるとみており、それが順行、逆行の理論的根拠にもなり得ると言うのでしょう。これに相当する理論はもちろん通常感覚には存在しません。そもそも相対論が示唆する形での「自由」を認めないのです(別の形での自由、つまり主観的と片付けられてしまうような自由はもちろんあると思っています)。そこで、なるほど光速度が自由空間に区切りをもたらすことは、理屈として納得はしないが、あえて批判する材料にはしないとして、その区切りの内部では自由であるには違いありません。であるなら、停止することもあると言っているに等しいわけで、その条件では時間が流れているという根本的事実を説明することができない、と考えるわけです。すなわち時間の順行性と、よどみなく流れているという事実は説明不要の前提であると私たちは考えますが、相対論はその双方に対して理論的根拠を出す必要があるはずでしょう。なぜなら、部分的であれ、自由という設定を持ち込んだからです。そしていかにもこの部分の弁明がうまくいってないように私には思われます。双子のパラドックスが理解しがたいアポリアである核心は、実は語られない外挿の部分に私たちの感覚ではいかにしても受け入れがたいシナリオを持つからでしょう。
だがこの指摘は抽象的すぎると思う人がいることはわからないではありません。