フィジカルパラドックスがあり得ないならタイムパラドックスもあり得ない


  2-11 フィジカルパラドックスがあり得ないならタイムパラドックスもあり得ない

 ウラシマ効果は時間の歪みそのものを取り上げますが、双子のパラドックスは相互性を問題にします。相互性というのはタイムパラドックスに限定した話ではなく、互いに進行 方向に縮んで見える、などのことも含むので、本当は全く別の文脈で語るのが正しいように思いますが、あくまで時間論の形で語られることが多いようです。
 宇宙船に乗って出発するとき、もちろん地上に残る側ともども、お互い相手が遠ざかってゆくという認識を持ちます。相手の時計が遅れて見えるという相互性もまともな相対論の解説書なら書いてあります。まとも、と言うのは「それならば地球に残った側だけいつも余計に年を取ることになるのはおかしい」という話になるわけで、読者がその点に気づくだろうことを避けなかっただけまともであるとみておきましょう。ただし回答するだけの良心までは期待できないし、もちろん誰一人として回答はできないのです。わかりきったことであると言いながら、謎をかけたまま終わる例が多いように思います。上の鍵かっこの中身が双子のパラドックスと言われるものです。
 隣り合った電車のどちらが動き始めたかが乗客にはわからないという問題、すなわち絶対的基準と相対性についての不十分な把握によってあいまいな回答をしてしまうという事実よ、時間はゆがむはずであるという信念の組み合わせが双子のパラドックスの構成要素です。つまり、どちらの電車が動いたかがわからないのと同じ概念的仕組みによって、どちらが年を取ったことになるのかわからないことになっています。系の切り取り方によってどちらの電車が動いたかの答えが違うものになりうるように、どちらが余計に年を取ったかの答えも系の切り取り方によって違うはずなのです。でも、そういわれると、釈然としないのはなぜでしょう。

 話の大前提として、ウラシマ効果はわかれていた二人が再会するとき解消され、したがって余計に年を取るということも離れている間のみそう見えるということなのであるとすれば、ウラシマ効果を最後まで認めた上で双子のパラドックスに明快な回答があるということは何かしらの誤解が存在するということでもあります。すなわち今まで私が縷々詳説してきたことを受け入れるなら、兄弟は同年齢で再会することになり、パラドックスは言葉上だけのものとなるのです。その上で、パラドックスをかくも人々が論じたがるのはそれなりの根拠があるのだろうと推測します。もちろん時間の伸縮(日常的な感覚としてのそれではなく、あくまでニュートン的時間論の否定としての伸縮)は、相対論側としては、存在してもらわなくてはなりません。その上で、本当ならばパラドックスは存在するべきではないはずですが、私のような思考法でのパラドックス解消は結局それが見かけだけのものであり実際的な伸縮ではないと言うに等しいのだから、そう言われるくらいなら論理の整合性を犠牲にしてもパラドックスが存在する方を選ぶのでしょう。これは意地の悪い見方ではなく、彼らのパラドックスへの向き合い方、そしてそれを指摘する人への侮蔑的な態度を見るにつけ、ほかに理由はないと思うのです。彼らにとってはパラドックスを内包することが理論の高尚である理由にもなるのですから。従って、とてつもなく奇妙な話ですが、パラドックスが彼らの手によって誰にもわかる形で解消される見込みは全くないのです。だが私はそれに一歩進める形で、この曖昧な態度がパラドックスの論理的根拠の一部である可能性も考えてみるべきだと思っています。

 高速ですれ違う同士は互いを小さく認識する、ということも、実は時間の遅れと同様の構造をしており、そうであるなら双子のパラドックスに似たパズル、タイムパラドックスならぬ、言うなればフィジカルパラドックスが導き出せるはずなのです。なぜこちらは着目する人がいないのでしょうか。それは速度を落とすなり方向を変えるなりしてどこかで落ち合うなら、互いに元の大きさを認識し合う状態に戻ると自然に感じられるからであると思われます。つまりこの例では「遠くのものが小さく見えていた」という通常感覚での世界観が適用されているのです。「見えていた」ならば元に戻ることに困難はありません。ところが、相対論の主張の本来は「事実として小さくなる」であったはずなのです。事実として小さくなることを受け入れたなら、パラドックスは以下のように構成できるでしょう。

「私がぼんやりと立っている。かたわらをすばらしい速度で乗り物が通り過ぎる。その乗り物の中の人にとって私は進行方向に対して縮んだ存在である。相互的に、彼も事実として縮んでいる。乗り物はやがて停車し、私は時間をかけてそこまで歩き、中の人に会う。このとき実際に扁平な人間となっているのはいったいどちらか?」

 時間の取り返しのつかなさ、すなわち過ぎた時間は取り戻せないということが双子の上に痕跡を残し続け、再会の折に比較を可能にすると人は感じます。だが、縮むということが実際に物理的なことであるなら、理解を絶する複雑なプロセスのはずであり、痕跡を残さないということがあり得るでしょうか? あり得ると言うなら、まあそれでもかまいません。だがそうなるとそれを物理的現象とはもはや呼ばないのではないでしょうか。また、物理的な変化が空間のゆがみの結果であり、ゆがみが戻れば以前の形が復活する、と考えるのであれば、時間の伸縮も同じように時間のゆがみであると定義されているのであるから、ゆがみが戻れば元の通りの時間関係に戻ると考えるのが至当ではないでしょうか。
 同じ場所には戻れるが、同じ時間には戻れない、パラドックスに表現された取り返しのつかなさの違いはその反映である、という反論はどうでしょう。だがこの取り返しのつかなさは相対論の理論空間の中に本当に存在するのでしょうか。私はそれを通常感覚の考え方が無自覚に採用されたものであり、相対論にあってはならない要素であると見ています。

 パラドックスの明快な回答、すなわち誤解のありようはいかなるものかを考えるに当たって、先に述べたところのいわゆる半分だけまともな著者の用意した答えを考えてみるのがよいかもしれません。そこに典型的な錯誤が見て取れるからです。
 仮想空間内のパズルとしての双子のパラドックスについては、答えは単純でしょう。相対論において時間の遅れは常に光速度と物の移動速度の差から求められます。したがって、動いてさえいれば問答無用で時間の遅れが生じます。しかしそれは大変おかしな話で、もともとは動いていようがとまっていようが、どちらにとっても光は同じ速度で飛んでいるように見えるということを正当化するために時間を操作したはずなのです。では、光に向かっているときと、光が後ろから追いかけてくるときは別の時間軸を用意するしかないでしょう。もし、自分の進行方向と同じ向きに進む光に対して、自分に時間の遅れが発生すると言い得るなら、逆向きであれば時間はより速く進むのでなければつじつまが合いません。
 そうだとすると答えは単純で、地球から宇宙船が飛び立ち遠ざかってゆく際に、互いに相手の時間が遅くなると認識するのであれば、地球に帰還する際には、近づく互いの時間は早くなります。ミンコフスキー空間において、未来の部分は原点から単調に遠ざかる動きしか書き込めず、遠ざかることが時間の遅れてゆくことと一体となっていました。そして過去の部分には原点に単調に近づきつつある動きしか書き込めません。もちろん時間が早くなることと一体なのです。
 先に、仮想空間内のパズルと書きました。つまり上のことが解決でありうるためには「時間が遅れる」ではなく、「時間が遅れるように見えるだけ」である必要があります。そのうえで、遅れるように見えていたが、実際には同じ時間が流れていた、という結論になるのです。
 宇宙船が戻ってくるからパラドックスが解消されるのであって、戻ってこない場合にはどうなのか。時間の遅れは続くのではないか。そうであるならパラドックスはパラドックスとして残すべきであり、それが宇宙というものの神秘を表しているのではないか。そういう反論はあり得るのかもしれません。そこから先は多世界解釈をどう評価するかということになるでしょう。