ここまで来て、今更驚くべきことを言うようですが、私の中心的な関心は科学にはありません。広い意味での哲学、生きることの可能性についての議論です。その際、現代の王道である科学的世界観が非常に厄介な重荷となっています。特に例の「知の欺瞞」騒動以降、科学は正しいが(一部の)哲学は冗談以上のものではない、という見解が強くなりました。ここで「一部の」をカッコに入れていますが、この限定は必要ないと思う人も多くなりました。
何よりも残念なのは、量子論や相対論の描く不思議な世界観に寄り添って、宇宙はかくも神秘的であるから、人生も常識で狭く考える必要はないという論法が広く見受けられます。仏教が量子論に通底しているだとか、昔ならビッグバンは創世記の宇宙開闢神話を肯定しているとか、本当にどうしようもない理屈が横行しています。
これは全く逆です。私たちがもっと常識に寄り添うことによって、世界と人生の不思議な豊かさが明らかにできるのです。つまり数式をいじくるだけで生み出される神秘は、しょせん現実の不可思議ではないからです。
相対論が根本的にナンセンスであるということは、科学主義に過度に傾斜した世界観を立て直す手始めであろうと思います。
相対論が間違っているとして、いや、間違っているに決まっているではないかとここまでのことで一生懸命説いてきたわけですが、一応謙虚に仮定法として考えてみることにして、何が変わるのでしょうか。
わかりやすいところで、ビッグバンとブラックホールが否定されます。ビッグバン理論が否定されたからと言って、宇宙が永劫の昔から存在していたとはすぐに言えないわけではありますが、少なくとも一つの重要な妥当性として論じることができるようになります。
また、無限小の一点が拡大したという世界観では、現在も拡大中ということになっており、その空間的な大きさは当然ながら限られたものになりますが、これも、無限の広さという観念で語る余地が生じます。つまり、時間的にも空間的にも無限の広がりを持つことを、私たちは当たり前の前提とすることが可能になります。
これは単純に科学のみに絞った見方をするなら、そういう知識の変化があった、と言うにとどまりますが、私たちの人生観や宗教的意識に、想像以上の変化をもたらしうる、大きな違いではないかと思います。少なくとも、無限や永遠という観念は、西洋では神学の内部でだけ語られてきました。つまり神の属性なのでした。
では宇宙そのものが神なのか。この一文は、科学の時代において全くのナンセンスとして相手にされなかったでしょうが、なにか究明すべき謎が秘められた感覚として、見直すべき部分があるのかもしれません。
もう一つ。とても変なことを言い出すようですが、相対論が科学の中心であったことは、カントールの実無限の考え方が数学の基礎概念であることの、正確な反映であったのかもしれません。一言であらわせば、それは無限を記号として扱うことにより、コンパクト化する思想である、というところでしょうか。
数学に過剰に寄りそう高次元、時空のゆがみ、コンパクトな無限すなわちブラックホールなどの非現実性に、私たちはもう少し敏感であってもよいと思います。最近、新書形式の宇宙論を読んでいて、時空が無限に広がるなんてことを信じてるやつはばかに見える、というニュアンスの記述を読み、いや、ばかはお前だろう、と言い返したくなりました。時空の無限を否定しておいて、無限に分岐するマルチバース、無限大の重力を持つ無限小の一点、無限大までの高次元の存在を語る。この自己認識の欠如ぶりはどうしたことか。あまりにもくだらないとしか言いようがありません。数学的手法に頼らずとも、これら二通りの(すなわち相対論が小ばかにして排除するタイプの無限と、容認するタイプの無限、それぞれの)無限の性質について論じる道は、確かにあるものと思われます。
気軽に操作可能なコンパクト化された「無限」、これが思考の基礎にある限り、相対論への信仰はとまることがないのかもしれません。しかしそれらは、端的にナンセンスなのです。
ここから、多少の考察を試みるのですが、相対論が間違いであるという大前提は動かないにしても、その先にある自分の考えが正しいという気持ちには程遠い状態です。今日書き込んだことが次の晩にはもう違っているような気がする、ということが頻繁に起こります。その点は先に申し訳ないと言っておきたいと思います。なんにせよ、自由に考える余地はあるのだから、いろいろな発想を試してみる余裕を、だれもが楽しめばよいと思うのです。