多世界解釈の結論


  2-17 多世界解釈の結論

 ところで、相対論をもっともらしく装う方法論の一つは、全く同質の選択肢を持ち出して、どちらかを選ぶ積極的な理由がないという形でした。思考がこの形にはまり込むよう順序良く自らを(!)誘導してきた場合、積極的な反論は思いつきにくいかもしれません。シリウスまでの距離は飛来物の速度によって5光年かもしれないし、8光年かもしれない。ここで二者択一を迫るなら、確かに迷うしかありません。地球に据え付けた観測機器で測った10光年足らずという数値、もしくはありえないことでしょうがシリウス系の住人が出した数字がこれらと並べられるとき、錯覚が始まります。飛来物の視点に立った宇宙像を私たちは描くことができません。できそうに思えるができないということは、ミンコフスキー空間が全面的にデカルト座標に依拠した概念しか提出できないことに表れています。つまり私たちは静止座標の上に動く物体を置く形でしか宇宙論を組み立てられないのであり、相対性理論は静止座標を宇宙全体に広げることは原理的に不可能であると、全く見当違いの意見を不遜にも言うわけですが、それが可能であることは時計合わせが可能であることからも明らかなのです。
 相対論が導く多世界解釈の真の問題点は、多世界の理屈への一般的な反論からは見えてきません。たとえば私の乗る100メートルの宇宙船を50メートルと認識する別の宇宙船があるとして、それだけを考えるなら単純な重ね合わせですが、30メートルや70メートルと認識する運動体が宇宙には必ず存在します。ここでも重ね合わせは無限の数だけ存在するのであって、二者択一などではありません。また、たとえば時計がいびつに見えるときの見え方はさまざまですが、これも無限にあります。その見え方ひとつずつに多世界をあてがう必要があるとは、もしまともな語り方で事実が描写されるなら、誰も思うはずがないのです。つまりそれは十円玉を種々の方向から見て、極めて薄い長方形に見えたり真円に見えたりすることと同様の、視点を変えれば違う形に見えるということのバリエーションにすぎないのですから。
 では十円玉が真円に見えるということの、相対論的な意味とは何でしょうか。一つの視点に固定して、見ることのできる形を一つの世界として提示することです。私の乗る100メートルの宇宙船を50メートルと認識する運動体も、30メートルと認識する運動体も、「仮に私がそのような宇宙船に乗って、今私のいる宇宙船を眺めることができたら、その通りの認識もあり得るだろう」と言うことができます。これは全く日常的な言語使用であり、かつ日常的な意味で理解しうるのであり、別の世界である必要はありません。なぜならどのように見えようとも、私の乗る宇宙船が100メートルであることを私は知っているからです。そこを、実際にすれ違う宇宙船を持ち出して、彼は私の乗った方を30mと認識する、という形で論じるのが相対論の特異なエクリチュールなのでした。この語りの幻惑的な効果によって誰もが騙される、ということが単純なあらましです。
 同様に、相対論を展開する文脈の中でいろいろな時間の遅れ方が語られるでしょうが、単純極まりない可能性の問題に過ぎません。可能性の問題とは、もし私がこのようにふるまうなら、あるいは相手の立場だったら、現実はこのように見えていた、あるいはこのように変わっていた、と論じることです。これはこの世界が持つ可能性であって、他世界のそれではありません。そして、私と世界の関係によって開示されるものであり、存在論的ではなく、認識論的な事実です。平たく言うなら、あえて他世界を要求しなければならないような代物ではありません。
 ところで、短く見えるということは見え方の問題であり、相手方の情報を伝える光の速度が有限であることを考慮するなら、当たり前の現実として認められます。時間が延びるとはものそのものについての記述になりますので、本来ならば字義どおりに受け取ることはできません。タイムパラドックスは論じられるが、物理的なパラドックスが論じられることはないということと軌を一にしており、相対論に基づく言説がいかに種々の先入観によって支配されているかを示すものであると思います。言うまでもなく相対論では二つのことがあいまいなままにされているので、区別がつかないのです。

 結論。多世界解釈は言葉の構造から出来上がるものであって、世界が本来持つ性質ではありません。言葉が数式に置き換わっている場合に、誤解が拡大される恐れが大きくなります。「世界はこのようなものである」という言明に私たちはそれほど戸惑うことはありません。間違っていれば指摘するし、部分的に正しい時にはそのように受け止めます。言明が数式であるとき、論理的な正否が決定できるものと私たちはみなすでしょう。もちろんこの場合に境界条件を求めるはずですが、相対論はおおむね宇宙論として出されているため、私たちは宇宙のすべての部分にかかるものと思わされています。しかしながらこの理論の実情を言うなら、一つの視点と一つの運動体とにおける、閉じた一次元の空間でのみ正しいのです。したがって本来は必要のないところで別の世界を持ち出すのですが、それは別の視点による解にすぎません。
 そして、選択肢とは私が有意味にできることであり、意味は客観的世界には属さないものです。端折った言い方をするなら、多世界解釈とはいくつかの物語を編むということになるのではないでしょうか。物語とは、世界を意味の連鎖によって理解することです。客観的事実に本来そなわった意味というものはありません。人間が作るストーリーによって意味が生じるのです。