議論に必要な知識をまず掲げておきます。語るべきことがあまりにも少ない上に単純なので、とりわけて注釈を入れる必要はないでしょう。唯一の心配は、あまりに簡略すぎて私が悪い冗談を言っていると思われかねないことでしょうか。
相対性理論の主眼は次のことだと思われます。すなわち時間と空間は諸々の事情によって曲がり、その曲がり具合が内容物つまり私たちが存在するものと見なすあらゆる物理的実在に影響を与えるということ。ひいてはこの実在物どうしの関係、つまりすべての現象が多かれ少なかれこの時空の歪みに影響を受けます。
相対性理論の論文は「特殊」と「一般」の二つがありますが、特殊相対性理論では空間中にある物体が移動することでこの物体が進行方向に沿って縮み、またその速度に応じてこの物体の固有時間の進みが遅くなり、そしてもう一つ、速度が上がることで質量が増えると論じられます。解説書によく出てくる例は、高速の宇宙船の内部では時間の進みが遅くなるというものです。外宇宙から帰還したパイロットは十年の旅のつもりだったのに、地球ではすでに百年単位の時間が過ぎており、彼は遙かに進んでしまった地球文明に適応しきれない、という空想は二十世紀を通じて最も多く語られた物語の一つです。
もう一方の一般相対性理論では、質量のある存在そのものが周りの空間を歪めるとされ、この歪みが重力と呼ばれます。つまり重力とはいくつかの物体が互いに引き合うことではなく、それぞれが作る空間の歪みに相手を取り込むことであるとされます。要するに、どちらの理論も時空間の曲がりが宇宙のあらゆる現象を解読する基礎概念なのです。
以上のことを数式を使ってきれいに整理した形で表現してあるわけですが、数式の方は当面理解する必要はありません。相対性理論について知っておくべきことは以上に尽きます。
一応整理しておきます。
1 どの観察者から見ても、光は一定の速度を持つ。光源に近づく者が 光を速く認識したり、逆に遠ざかる者が追いかけてくる光を遅く感 じたりすることはない。また、光よりも速い物理的実体は存在しな い。
2 運動する物体は質量が増える。光速度に到達すると計算上無限大の 質量になるので、光速度で移動する物体はあり得ない。
3 動いている物体は、進行方向に沿って長さが縮む。この見かけは相 互的なので、私が短いとする相手の物体側の視点では、私こそが短く 見えている。
4 動いている実体にとって、時間の進みは遅くなる。動く速度が光速 度に達すると、全く時間のとまった状態になる。
まだ出てくるかもしれませんが、それはその時に書きます。いずれも、なぜそうなるかということの複雑な計算は今のところ考えません。これらはあまりに常識的な知識として定着しておりますので、まずその平易な説明をそのままに受け取ってあれこれ思考すればよいと思います。
本当に、これだけなのです。従来の批判は、なぜ時空が曲がるのかという考えの成立過程を問うことに傾きがちでした。いわゆるローレンツ変換式が光の性質から時空の曲がりを導く考え方を支えるとされていたため、これを検討することが不可欠であったわけです。しかしこれは批判としてあまりうまいやり方とは思えません。難しい数学の問題を解いた時、だれもが達成感を味わいます。相対性理論においても、難解な数式を理解できたという達成感が、一つの重要な信仰理由であることは間違いないと思います。
またそれは批判者が、自分の方針をつかみきれていないと私には見えます。たとえば人間が二本足になった過程を進化論で拙く説明する理論と、人間は四本脚のままであることを同じく進化論を使って一分の隙も無く証明する理論があったとき、それでも後者を支持する人はいません。必要なのは二本足であるかどうかの言明だけです。
しかしアンチ相対性理論が積極的にこの結論を出そうとしたことはありません。彼ら(私もそちら側に付くので、この突き放し方は卑怯なのですがあくまで文脈上の表現です)の言い分では、光時計(振り子の代わりに二つの反射鏡を往復する光を利用して時間を計る装置)は確かに遅れるかも知れないが、それは時間が遅れることではない、光の振る舞いと時間の進みに何の関係があるのか、ということになります(とりあえず話しておくだけですから、詳細な意味を理解する必要はありません。以下、飛躍が多すぎておおよそ判読しがたい文章になりますが、理解のための裏付けはのちに提示されるはずです)。しかし私の見立てでは空間が歪むということが事実であるなら時間もそれに応じた歪み方をするはずだと考えるのが正しい理解になります。反対する側は、空間の歪みを考慮に入れない、私たちの通常感覚で時間と光の関係を捉えており、私はそれで姿勢そのものは正しいと考えますが、理屈としてうまく成立していません。すなわち、時間は遅れることはないとしても、光時計が遅れるということは認めているわけですが、遅れるためには空間が歪むという前提を必要とするのであり、もしそれを認めるなら時間も遅れることになります。つまり通常感覚を押し通すなら、光時計が遅れることもないと言わなければなりません。しかしながらその理論をアンチ相対性理論の側はまだ確立できていないようです。
私はこの問題を回避するために数式を理解する必要が無いと言ったわけではありません。数式を理解することが相手の方法論に沿って思考を進めることにしかなっていない現状はいかがなものかと思うだけです。空間が歪むのであれば時間ものび縮みするのであり、その関係を数式で表現する必要はありません。例えば空間が歪むとは客観的な世界を測るパラメータが変化するということですから、その客観性を保つためにはつじつま合わせとして時間のパラメータをいじる必要があるはずです。これは数式の形がいかなるものであれ問答無用で認めるべき前提であると思います。どの重さの恒星からブラックホールになるのかという問いには数式を吟味して答える必要がありますが、ブラックホールの存在そのものを疑問視するのであれば数式の検討は無意味です。なぜなら数式の形に関係なく時空の一方が曲がるのならもう一方も変化するからです。したがってむしろ無意味であることを理解してこそ先に進むことが可能になります。先にある展望の一例として、相対性理論が視点の相互性を掲げている以上、私の考えでは(この結論はまだ説明が足りないと思いますが一応先回りして書いておきます)宇宙の中にブラックホールが存在するのであれば私たちの日常生活の場もブラックホールの内部でなければならないということになり、それはあまりに無意味な意見なのでブラックホールは存在しないという結論が妥当であると思われる、というような発想が出てきます。このような思考法でゆくのであれば、数式はあまり意味を持ちません。
一つだけ補足を加えておきます。視点の相対性ということばかりが取り沙汰され、相互性という問題を深く突き詰めた研究はあまり見ないようです。相互性とは、例えば私の乗った宇宙船が別の宇宙船とすれ違う際、私があちらの宇宙船を短く認識し、それと同様にあちらの乗組員も私の乗った方を前後に縮んだ形で認識するということです。彼らから見た私の側の縮みがいかなる物理的な意味を持つかを考えると、これが深刻な問題であることが理解されるはずです。相対性と相互性とが、特に意識して弁別されることなく、相対性だけ問題にしておけばすべてが解決しているかのような、いい加減な思考態度が見えてくるのではないでしょうか。